◆三思一言◆◆◆ 2018.06.18
◆古代の道路〈研究事始め〉
「古代の大道は直線であった」と、とても魅力的な説を精力的に展開されたのは、歴史地理の足利健亮先生です。古代国家の道が直線であるという考え方は、1970年、歴史学の岸俊男が、大和の上ツ道・中ツ道・下ツ道と古代の都城の関係を論じたのが端緒です。
足利先生もこのころ南海道や東山道を例に、直線の大道を推定復原できること、そしてそれは、渡河点や丘陵の先端、行政界などで「折れ線グラフ」のようになるという論文を発表されます。古代の駅家研究と、空中写真や地図・地名を駆使した「考証の楽しさ」は、大いに関心を集めました。
◆久我縄手を歩く
久我縄手(こがなわて)も、足利先生がとりあげた平安時代の古道の一つです。大山崎の下植野で西国街道と分岐し、乙訓郡条里のなかを斜めに久我まで突っ切る、約6㎞の直線道路です。梅雨の晴れ間、かねて念願だった久我縄手をようやく完歩しました。ところどころが、新しい道路や川・水路、工場などで寸断されていますが、それでもなお、古代の計画道路の存在を満喫できます。足利説のとおり、小泉川や小畑川のところで少し向きがかわるものの、とにかく今でもまっすぐです。
みどころの一つとして、長岡京市立スポーツセンター(元長谷川工務店)から長岡京市東浄水場付近の区間を紹介しましょう。上の写真で、中央を斜めに走っているのが久我縄手です。1980年代になると、全国で考古学による古道研究がさかんになりますが、実はこの付近も、全国にさきがけて古道の発掘調査が行われた先進地なのです。
1980年、スポーツセンター建設の事前調査(長岡京左京58次調査・小字下八ノ坪)で、久我縄手を断ち割るという、画期的な調査が行われました。この結果、平安時代初期の路面幅は約9メートル、両脇に幅2メートル前後の側溝があり、中世以降半分ほどの規模になって、現在に至ったことがわかりました。
その北、長岡京市東浄水場建設の事前調査(左京28次調査・小字棚次)でも、久我縄手の西側溝が確認され、周りに小区画の水田が広がっていました。当時の人や牛の足跡もたくさんみつかったのですよ。今、このあたりには名神・新幹線がとおり、現代でも高速交通の幹線となっています。地図と写真を掲載しましたので、ご参考に。
-参考文献-
・足利健亮『地図から読む歴史』 講談社学術文庫2108 2012年
・『長岡京市史』資料編一 1991年
