三思一言2019.12.09

桓武天皇のみやこ と「ながおか」ネーム

◆みやこくらべ

 2019年11月24日、神足ふれあい町家<町家ゼミ>で、「桓武天皇のみやこ-長岡京と平安京-」と題した講座をしました。古代日本の遷都の流れや桓武天皇の時代を、一般の方にわかりやすく聞いてもらおうという企画です。

 複雑な動きや、それぞれの都の姿を理解してもらうために、「みやこくらべ」をしてみました。⑴立地、⑵都市構造、⑶宮域、⑷京域について、藤原京・平城京、長岡京・平安京を比べてみると、それぞれの特徴がより鮮明に浮かび上がってきます。

 もちろん、眼目は長岡京の研究史と最新情報の紹介です。長岡宮は昭和30年代・40年代に大極殿院や朝堂院、内裏が明らかとなり、中枢部の保存が図られて、その後の調査の確かな礎となりました。

 京域の調査は昭和50年頃から向日市・長岡京市・大山崎町・京都市に広がり、40年余りを経た今、条坊や宅地のようすが詳細に分析されています。今回の講座ではL(左京)2次~L7・26次~L9次をプラチナライン、R(右京)314次~R365次~R1159次のラインをシルバーラインとよんで、長岡京調査の大きな転換点を説明し、これからの長岡京調査の課題についても私見を述べました。数多ある研究を読み返すなかで、印象に残ったものを2冊だけ参考文献として掲げておきましょう。

◆「ながおか」のネームバリュー

 「長岡京」は謎が多いからこそ、多くの人々の関心を誘います。そしてそのことが後の人々に記憶され、くりかえし「ながおか」のみやこ認識が再生されてきたことも大切で、『伊勢物語』や『古今和歌集』は、平安京の郊外に位置するこの地域の「名所」感に箔を付けました。

 元亀4年(1573)7月10日、織田信長から桂川を限る西の地の一職を与えられた細川藤孝は、「長岡」の姓を名乗って戦国大名への道を歩み始めます。『綿考輯録』(細川家の家記)には「この度城州のうち桂川を限り西地残らず御領地になる所、長岡の旧都にて城州も名所歌枕の地なる故、称号を長岡と御改めなられ候」と記されています。戦国時代に「長岡」ネームバリュー(価値・効果)がどれほどだったのか疑問をもたれる方に、エヴォラ図書館とリスボン図書館に所蔵される屏風の裏張り文書から、「寂照院・光明寺言上書」を紹介しましょう。この文書は西岡の寂照院と光明寺が、豊臣秀吉の側近・右筆の立場にあった人物に領地を認めてもらうよう嘆願したもので、そのなかに「ながおかのきゃう今のたいらのきゃうへうつされ候へハらくちう(同前」という一節があります。つまり「ここは長岡京があったところで、今の平安京へ遷ったのだから、洛中(京都)と同じように」助力してほしいと主張しているのです。当時の「長岡」ネームへの認識を示す好事例です。

 7月28日、元亀から天正へ改元された直後、藤孝は「長岡」を名乗り、地元の武士や寺社に支配を認める文書を次々と発給していきます(東寺百合文書・革島家文書・清水清矩家文書)。この時から、永青文庫に伝わる信長からの文書も、宛名が「細川」から「長岡」に変わりますので、自分で名乗っただけではなく、信長からも認められ、そしてその名が戦国大名たちに浸透していったことがわかりまず。

 また元亀3年12月6日に京都の三条西実澄(実枝)邸で始められた古今伝授は、奈良の春日神社や多聞山城などで回を重ね、ついに天正2年(1574)6月17日、勝龍寺城「殿主(天守)」において古今集切紙伝授に至りました。「細川」から「長岡」へ、藤孝はまさにこのとき、物心両面の転身をとげたのです。

◆「長岡大明神」-神になった「長岡幽斎」-

 本能寺の変の後、藤孝は剃髪して「幽斎玄旨」となりますが、古今伝授の継承者として天皇周辺や戦国大名から一目おかれる存在でした。関ヶ原の合戦のさい田辺城に盾籠り、死を覚悟した幽斎を救ったのは、後陽成天皇を始めとする和歌の伝統を守ろうとする人々でした。そのなかのキーマンの一人が八条宮(桂宮)初代智仁親王で、帰還した幽斎と深く交わり、江戸時代初期の雅な宮廷文化の礎を築きました。慶長5年3月19日、智仁親王が古今伝受にあたって幽斎へ提出した誓文の宛名は「長岡幽斎」。このことが、後々までも幽斎弟子としての八条宮家の優位性を示す根拠となり、ひいては「長岡」への特別な憧れを定着させることになります。

 父の遺志を受け継ぎ、下桂御茶屋(桂離宮)や開田御茶屋を整備したのが2代智忠親王です。その開田御茶屋に営まれたのが開田天満宮で、京都今出川屋敷で智仁親王が幽斎から古今伝授を受けた座敷も移されました。ここは、幽斎(長岡藤孝)の古今伝授ゆかりの勝龍寺城を眼下にしていますので、まさにこれにふさわしい場所として選ばれたのでした。開田天満宮は元禄頃より長岡天満宮と改名し、以後この名で広く定着していきます。

 時代は下って安政6年(1859)8月20日、幽斎250回忌を迎えた桂宮家は一層の霊徳を願い、幽斎を祀る「長岡大明神」を連歌所西の池の辺に勧請します。まさに、幽斎と古今伝授の御家の深い縁を象徴する出来事といってよいでしょう。

 ◆長岡大明神の流転と長岡天満宮の再生

 長岡大明神が勧請されたのは幕末。程なくして明治維新となり、桂宮家領も上地され、260年の桂宮家と長岡天満宮の関係も断絶したのです。明治4年(1871)年、長岡大明神と開田御茶屋の「由緒ある建物」建物は、細川幽斎との由緒深い縁で、桂宮家から熊本藩へ下賜され、藩邸(京都市下京区)へ引き移されました(「桂宮日記」明治4年2月19日条)。しかしその直後、熊本藩邸が取り払いとなったため、長岡大明神は再び桂宮邸(京都今出川御殿)へ引き移され(「桂宮日記」明治4年10月10日条)、「由緒ある建物」は大坂の細川蔵屋敷へと運ばれました。

 紆余曲折を経た現在、長岡大明神は旧桂宮邸跡地(京都御苑内)の庭園の一画に、宮内庁のもとで丁重に祀られています。そして一方の大坂に運ばれた「由緒ある建物」は、大正元年(1912)、熊本水前寺成趣園に「古今伝授の間」として再建され、多くの人々に親しまれているのです。

 さて、宮家の庇護を離れた長岡天満宮は、再生への苦しい道のりを辿らなければなりませんでした。窮地を救ったのが、平安遷都千百年事業です。桓武天皇の聖跡として、長岡宮大極殿石碑建立とともに社殿整備の補助金を受け、京都保存の波のなかでその由緒が広く再認識され、近代的な神社としての再生に弾みがついたのでした。

 ◆「長岡町」誕生70年

 明治終わりから昭和にかけての長岡保勝会の活発な活動により、長岡天満宮の境内と八条ヶ池周辺は、近代的な公園として生まれ変わりました。そして昭和3年(1928)、すぐそばに新京阪電気鉄道の駅が開設されます。その名は「長岡天神」。やはり駅名効果は抜群で、周りには「長岡競馬場」や「長岡禅塾」など「ながおか」ネームの大型施設が次々とつくられていきました。

 戦争の厳しい時代を経た昭和24年、戦後の混乱と民主化への動きの中で、財政難打開ため町村合併が図られていきます。紆余曲折を経て、新神足村・海印寺村・乙訓村の3ヵ村が合併することになりましたが、さて町名はなんとするのでしょう。

 昭和24年6月9日、三村合併委員会は新町名を選定するために、住民にアンケート用紙を配りました。京都府行政文書のなかに、その時のガリ版刷りの投票用紙が綴じられており、7つの候補名(長岡町・西山町・神足町・西ノ岡町・三和町・洛西町・神楽町)とその理由が記されています。締め切りは翌日で、投票結果は第1位が神足町724票、第2位が長岡町631票です。当時神足が最も人口が多く、省線神足駅の周りに工場が集中していて経済的にも優位でしたので、当然の結果です。しかし実際に町名となったのは次点の「長岡」でした。その理由は「無条件合併にて旧村名に近き名称は、他村に編入せらるゝ感を生ずるを以て、別紙住民投票の内点数多き長岡町」で、この名を満場一致で選定したのでした。

 合併にかかる一件書類が綴じられた簿冊(京都府庁文書昭25-9-1)には、「長岡京と町名の関係」や「長岡町の名称を選びたる基礎」などの項目もあり、当時「長岡京」がどのように認識されていたのか、とても興味深く読むことができるのです。京都府知事木村惇の演説書には「このさい心気を新たにするため、往昔長岡京のあったゆかりにちなみ、長岡町と称して今後大いに町的施設を完備し、将来一層の発展を期そう・・・」とあります。こうして昭和24年10月1日、戦後の混乱と将来への希望のなかから新しいまち・「長岡町」が誕生したのでした。

  あれから70年・・・。私たちのまちはどのようになったのでしょうか。YouTube長岡町誕生70年

 

ー参考文献ー

『長岡京跡発掘調査報告』京都市埋蔵文化財研究所調査報告 1977

・吉本昌弘「長岡京条坊プランに関する一試論」『長岡京古文化論叢』中山修一先生古稀記念事業会編 1985年

・松田毅一・海老沢有道『エヴォラ屏風文書の研究』 ナツメ社 1963年

・中村質「豊臣政権とキリシタン-リスボンの日本屏風を中心に-」『近世貿易史の研究』 吉川弘文館1988年

・百瀬ちどり「海を渡った言上書」京都西山短期大学『西山学園研究紀要』第9号 2014年

 

寂照院・光明寺言上書

秀吉の時代に、ポルトガルへ伝わった日本の屏風の下張り文書。数多の断簡の中から、一通の文書が奇跡的に復元できた。赤枠の2断簡がエヴォラ図書館、その他の断簡がリスボン図書館に所蔵されている。


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資料・記録から読む「ながおか」ネーム⑴.pdf
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長岡町設置に関する一件書類 【長岡町設置】昭和24年10月1日

京都府立京都学・歴彩館所蔵 京都府庁文書 昭25-9-1

「市町村廃置分合境界変更」と題された簿冊のなかに、新神足村・海印寺村・乙訓村の3ヵ村を合併し、長岡町を設置した一連の文書が綴じ込まれています。各村議会の議事録、町制の要件を分析した調査報告、府議会での知事発言の原稿など、当時の動きがつぶさにわかります。神足駅前通りと西国街道の写真には、戦後まもなくの激動のなかで、新しいまちづくりに取り組んだ人々のくらしが写し込まれています。