◆三思一言◆◆◆ 続・つれづれに長岡天満宮(36) 2021.04.20
◆桂宮家の明治維新
260年余り続いた江戸時代。天正17年(1589)、豊臣秀吉によって創設された八条宮家は、徳川幕府によって3000石余りの領知 が与えられ、以後常磐井宮→京極宮、そして桂宮と名を変えつつも、その由緒と家政を守って来ました。
しかし時代は移り明治維新。明治3年(1870)12月、桂宮第11代淑子(すみこ)内親王に、新政府より家禄として1015石余りが支給されることになりました(以下「桂宮日記」)。その時、桂宮家令として着任したのが、岩倉具視の腹心の部下・宇田淵です。
彼の任務は桂宮の家政を掌ると共に、天皇行幸の手配、滞在中の親睦・接待、京都へ残った宮家・公家への物心両面の支援、皇室財産の維持・管理など多岐に及びました。桂宮家の今出川屋敷と家来たちは、東京に対置する西京の核となったのです。
しかし、明治14年10月、かねてより療養中の淑子内親王が薨去し、そして明治16年には京都保存に先鞭をつけた岩倉具視も急死します。桂宮邸内にはこの年の年末、岩倉肝煎りの宮内省京都支庁が置かれますが、わずか2年余りで廃止され、宇田淵は主殿尞京都出張所長として残務にあたることになりました。明治19年2月12日、「桂宮」の称号を宮内省に預け、同26日に桂宮の御殿向すべてを京都出張所へ引き渡して、ここに桂宮家の歴史は幕を降ろしたのです。
◆下桂御茶屋から桂別邸・桂離宮へ
下桂御茶屋は、明治4年正月20日の太政官達によって、宮家の別荘として下賜されました。宮家の家来らが常駐する代わりに、非常の時は地元の村々が対応するなどの措置が取られています。
明治10年2月18日の天皇行幸には家令宇田淵がお出迎えし、同年7月のイタリア公使(コントバルユワニ)ほか政府要人、明治12年英国議員リートほか軍人らの桂別荘拝観のさいには、家来らが出張して対応しました。
また、明治11年3月~12月の京都博覧会に合わせて御庭向きの一般公開が催され、その収益の一部金60円(桜樹30本・楓樹30本)が献上されています。
そして明治19年2月、淑子内親王の薨去に伴う桂別邸の財産整理により、別邸は天皇の「離宮」として永く保存されることになりました。
◆長岡大明神の遷座と開田御茶屋の流転
明治4年2月、上地により宮家の内社であつた長岡天満宮も、没収されることになりました。すぐさま連歌所側に勧請した長岡大明神(祭神細川幽斎)と由緒ある御茶屋の建物を、ゆかりある細川藩に下賜することにし、折衝を開始します。4月には無事細川藩邸への遷座と主要部材の引き渡しを済ませしたが、それもつかの間、今度は藩邸の京都屋敷が取り払いとなりました。結局、長岡大明神は桂宮家の今出川屋敷に再遷座し、邸内の榊社と共に祀られることになったのです。屋敷の西南角にある両社は、今も宮内庁京都事務所によって毎月の奉斎が続けられています。
一方開田御茶屋の部材は、大阪の出入商人の倉庫で長く保管されていましたが、40年余り経た大正元年(1912)、熊本の成趣園(水前寺公園)に「古今伝授の間」として再建され、親しまれているのです。
また長岡天満宮は中世以来の由緒に鑑み、村社としての存続が図られ、今なお往時の社観を感じることができます。
◆「きりしま」に寄せて
2021年4月、例年より半月も早く、桂離宮と長岡天満宮・八条ヶ池の「きりしま」が咲き誇りました。キリシマツツジは、鹿児島県霧島に自生していたツツジを品種改良したものです。正保年中(17世紀中頃)に薩摩より大坂へ1本が来て、取木により5本が京都に伝わり、そのうち2本が御所に植えられたようです。
赤+オレンジの微妙な色合いと、小花をたくさんつける可憐さが貴人に好まれたようで、京都では京都御所・仙洞御所、曼殊院・青蓮院などの門跡寺院などで見ることができます。
長岡天満宮のキリシマは、元禄頃に連歌所の中に、嘉永頃に大池(八条ヶ池)の中堤に植えられたものです。中堤のキリシマは帯のように連なる巨木となり、満開ともなればまさに圧巻というほかありません。何よりもそれが公園としてまちのシンボルとなり、誰でもが自由に楽しむことができます。そして桂離宮もまた、宮内庁によって積極的な参観が図られています。
「きりしま」の赤い花を眺めつつ、植樹された歴史的な背景と、それを受け継ぐたゆまぬ努力に改めて敬意を込め、「つれづれに長岡天満宮」の最終回といたします。
-参考文献-
・百瀬ちどり「勤王の志士・宇田淵の事績」『乙訓文化遺産』24号 2020年
*「桂宮日記」の主要記事をPDFで掲載しました。興味のある方はダウンロードしてご検討下さい。