三思一言 続・つれづれに長岡天満宮(32) 2021.02.11

幽斎と智仁親王の「古今伝授」箱目録

 ◆古今伝授の再開と修了

 慶長5年3月19日から始められた八条宮智仁親王への古今伝授は、関ヶ原の合戦によって中断。死を覚悟した幽斎は、籠城中の田辺城(京都府舞鶴市)から智仁親王へ、「古今相伝之箱」と「証明状(7月27日付)」を託し、伝授の修了とみなしました。その後、弟子たちの再三の説得と後陽成天皇勅命により、幽斎は9月12日に籠城を解き、亀山城(亀岡市)へ。そして年が明けた正月、智仁親王と和歌の添削が交わされるようになります。

 慶長7年になると、幽斎は頻繁に親王邸に祗候し、時には泊まり込んでの熱の入った伝授が続けられます。智仁親王が初稿本・中書本を経て、「聞書」清書本の奥に幽斎の加証奥書を得たのは、11月2日のことでした。

◆伝授箱の目録にみる幽斎の思い

 古今伝授は、師から古今和歌集の読み方を教わるだけではありません。膨大な由緒ある諸本の書写・校合を行い、不審な点を糺していくなかで、様々な原本や写本が師から弟子に伝えられるのです。

 慶長7年10月5日に、幽斎から智仁親王へ渡された「古今集相伝之箱目録」をみましょう。幽斎筆に、ところどころ智仁親王の注記があります。「伝心抄」は幽斎が三条西実枝からうけた「聞書」原本で、実枝の加署奥書があります。それぞれ包紙一括の切紙十八通と、切紙六通も、勝龍寺城天主で幽斎が実枝から伝授された原本です。つまり幽斎は、自分の大切な根本史料を、親王へ継承しようとしています。

 それからひと月余り後、11月13日付け「古今伝授之箱目録」は、幾度かの原本・写本の遣り取りの後、最終的に智仁親王が作成した自筆の目録です。「伝心抄」に「三光院(実枝)奥書也」、切紙に「三光院筆也」記しており、意識的に渡されたことが、よりはっきりします。

 下段真ん中の「古今伝授座敷模様」にもご注目。幽斎は、勝龍寺城天主での切紙伝授のようすを書き写させ、念入りな「一校」のもと、その時の実枝伝授の切紙も合わせて伝えています。この「座敷模様」が智仁親王の書写であるとはいえ、幽斎自筆同然の価値ある一紙だということを、繰り返し述べておきましょう。

 

ー参考文献ー

・『古今切紙集』京都大学国語国文資料叢書52 臨川書店 1983年

・小高道子「古今伝授後の智仁親王(五)ー目録の作成をめぐって-」梅花短期大学研究紀要第37号 1989年

・図書尞叢刊『智仁親王詠草類』三 宮内庁書陵部 2001年

・図書尞叢刊『古今伝授資料』二 宮内庁書陵部 2019年