◆三思一言◆◆◆ 2021年08月19日
◆「西の清水」-二つの縁起-
寺社の「縁起」は、草創の由来や祀られた神仏の霊験を物語る「ストーリー」で、そこには謎めいた「ヒストリー」が見え隠れします。楊谷寺の「縁起」は、禁裏周辺で写された慶長19年(1614)のもの(国立歴史民俗博物館蔵)と、楊谷寺がつくった宝暦10年(1760)のもの(楊谷寺蔵)の2本があります。後者の筆写は公家の鷲尾隆凞ですから、この2本はほぼ同じ内容となっています。
これによると創建は大同元年(806)、清水寺の延鎮の夢想による十一面観音を祀る仏閣の建立に始まり、弘法大師や恵心僧都の修行と信仰、代々の天皇や上皇の帰依による幾度かの再興、そして慶長19年の芳室士筅による七間四面の仏閣再建と続きます。宝暦10年本は、これに霊元院・東山天皇・中御門天皇の信心と量空是海との関係が追記されます。
霊水の御利益で名高い柳谷らしい内容として、「西の清水」とよばれる根拠をあげておきましょう。慶長19年本には「洛陽ひんかし山清水寺千手千眼の御尊容と同躰分御長六尺の薩捶にて、いにしへよりあまねく西清水と名付来て、そのかみハ(その昔は)勅額なんとも(等も)ありしとかや」、また宝暦10年本には「又七十六代近衛院久安年中(1145-1151)、沙門行西法師再興有しに立岩(ママ)山清水寺の勅額を玉り」と、平安時代後期に「清水寺」の勅額を賜ったと記されています。
◆浄土谷大仏の謎
二つの「縁起」には浄土谷の大仏(乗願寺阿弥陀如来坐像)ことも記されており、慶長本には「恵心の僧都ハ丈六の弥陀を一刀三禮にきさみ安置して浄土谷と名付て此谷に引こもり、欣求浄土の願ひ浅からす念仏三昧を修し」、宝暦本には「又六十六代一条院長保年中(999-1004)恵心僧都此山に入玉ひ、欣求浄土の修行ハ此地なりと石上に念仏三昧す、色々の菩薩常に来迎有けれハ歓喜の余り、所も無格の浄土谷に名付玉ひ」とあります。柳谷を含めたこのあたり一帯が大きな宗教的な世界にあったことを示唆する縁起をふまると、このような山奥に丈六(一丈六尺:坐像高272.5㎝)の阿弥陀如来坐像が存在する理由が、「なるほど・・・」と腑に落ちるような気がします。
柳谷の十一面観音立像と浄土谷の阿弥陀如来坐像の制作は、ほぼ同時期の平安時代末期とされており、浄土教の祖・恵心僧都(942-1017)より、また慶長本縁起の「七十二代白川(河)院の御宇、承保年中(1074-1077)に水願上人勅命を蒙り、輪興丹青の建立ましましぬ、後又七十六代近衛院も御綸旨にてふたゝたひ御再興ありしとかや」の記述よりも下がります。永仁・元弘の頃の大地震では、谷という谷は崩れ、仏閣や僧房は跡形もなく埋もれたとも記されており、栄枯盛衰の繰り返しを潜り抜けて伝わる仏の軌跡を思わずにはいられません。
西山の奥深く、険しい山道を辿ると柳谷と浄土谷の分岐に行き着き、そこには今も「弥勒谷十三仏」の古き石仏が佇んでいます。側に流れる谷水の音を聴いていると、弘法大師が構えたという「十三仏の谷々」の縁起の記述がふと過ります。
-参考文献-
・『楊谷寺誌』1915年 ・『長岡京市史』本文編二 1992年 ・『長岡京市史』建築美術編 1994年
浄土谷と柳谷の分岐
弥勒谷十三仏
乗願寺の大仏(阿弥陀如来坐像)