◆三思一言◆◆◆ 2018年12月01日
◆柳谷観音講の広がり
楊谷寺は西山の奥、眼病平癒の霊水で名高いお寺です。霊元上皇の眼病治癒の功徳により、代々天皇家から尊崇をうけるようになりました。「桂宮日記」には幼い家主・節仁親王の病気平癒祈願ため、家司が度々代参したようすがくわしく記されています(天保7年正月28日条、2月3日・8日条)。
しかし何といってもその名声を支えていたのは、庶民の柳谷観音講の広がりで、元和9年(1623)の古文書からその発端がよくわかります。当時の講頭は多田九郎左衛門(向日町)・紅葉屋軍八郎(向日町)・神木治郎兵衛(淀運送問屋)ら5人、世話方は仁兵衛(奥海印寺住人)・檜葉藤(向日町住人)5人らの計10軒で、楊谷寺の御堂・守僧へ山や田畑を寄進して永続を図っていました。このころ「御堂の北手に少々流れ落ちる水」を煎じて飲むと諸病に効き目があることが広まり、京都寺町四条に家数43軒からなる万金講が結ばれ、大いに喜んだと記されています(楊谷寺文書)。
こうして楊谷観音講は、天明期になると伏見に灯籠講、大坂に万人講などができ、京都・大坂をはじめ近畿一円の多くの信者をもつようになりした。そして明治から大正期にかけては、表に示す通りその数300余りとピークに達します。別院として大津両国寺・大阪秦聖寺を傘下におき、東京・敦賀・宇治町に出張所を、北海道旭川と神戸に別院を開設するなど、その勢いがわかります。
◆町石地蔵と町石
楊谷寺の境内やお堂は、各地の観音講から寄進された扁額や灯籠でいっぱいです。柳谷ならではの独特の雰囲気は、他に例がありません。そのような例のひとつとして、ここでは町石地蔵をとりあげておきましょう。
町石はきびしい山道を登る参拝者のよすがとして、お寺までの距離を「あと〇町」と示すものです。高野山の事例が広く紹介されており、近くでは善峯寺でもみかけますね。柳谷の町石は石柱と地蔵形があり、特に地蔵は類例が少なく、十八町から一町まで揃って残っていた点でとても貴重です。
柳谷の町石は『長岡京市史』編纂のさい、史迹美術同攷会のみなさんが熱心に調査してくださり、初めてその全貌があきらかになりました。なかでも奥海印寺の基点(十八町)から楊谷寺門前(一町)までのものは、当時の柳谷参詣の賑やかなようすを良く伝えています。地蔵は同じ大きさ、同じ像容で、すべて大坂の月参講の人々が寄進したものです。ただし道路の付け替えや拡幅のため、位置が微妙に変化していますので少し注意を要します。最も大きなことは、起点の十八町のところが、京都縦貫道の下に埋もれてしまったことです。しかしご心配なく。十八町にあった町石地蔵(月参講寄進)と町石は向かい側の新道に、安政2年寄進の石灯籠(京都掃除講寄進)は楊谷寺門前に、大正14年の「闇を照らす」石碑(観京講寄進)も近くの柳谷橋西に保存されています。阪急バス奥海印寺停留所から楊谷寺までは徒歩約40分。むかしの参拝者気分になって、楊谷寺までカウントダウンの山道歩きはいかがですか。
-参考文献-
・『楊谷寺誌』1915年
・『長岡京市史』資料編二(1992年)、建築・美術編(1994年)、本文編二(1997年)
柳谷道の町石地蔵起点旧景(2010年撮影)
大正4年『楊谷寺誌』より柳谷講の地域別分布
大坂 | 京橋月参講ほか37組 |
摂津 |
野江月参講ほか84組 |
河内 | 高田恩徳講ほか48組 |
山城 | 大住立栄講ほか45組 |
京都 | 千眼講ほか21組 |
近江 | 平津信心講ほか15組 |
大和 | 東九条月参講ほか43組 |
各地 | 三河観音講ほか24組 |
(越前・伊賀・美濃・丹波・丹後等) | |
合計317組 |
「闇を照らす」石碑。小泉川に架かる柳谷橋を西に行くとすぐです。
奥海印寺バス停南の十八町地蔵。後ろの擁壁は京都縦貫道
楊谷門前の十八町灯籠。新道ができる前は、茶所石垣下の谷筋を辿りました