三思一言◆ 2019年7月26日

元禄7年の乙訓寺惣指図

◆乙訓寺再興の設計図

 現在の乙訓寺の寺観は、弘法大師の寺が南禅寺の末寺となっているのを惜しみ、徳川綱吉の護持僧・隆光が再興したものです(乙訓寺の再興と護持院隆光)。元禄7年(1694)、江戸にあった隆光は、側用人柳沢吉保・牧野成貞、護国寺亮賢らを通して、着々と幕府からの造営資金を入手していました。

 「乙訓寺惣指図」は、まさにその時つくられた設計図で、竹矢来(竹垣)で囲まれた境内と、本堂・八幡社・客殿・南門・東門の配置や間取りが、細かく記されています。青色は瓦葺き、茶色は檜皮もしくは杮(こけら)葺きで、再興の伽藍のようすが手にとるようにわかります。工事は元禄7年12月8日起工、翌8年5月21日に竣工で、6月15日に上棟供養が行われました。

 本堂の棟札には、中井家(幕府の大工頭)棟梁田宮小兵衛、用材の調達にあたった京河原町木屋与想右衛門・京材木町万屋庄右衛門をはじめ、手代・大工方・木挽方・石方・手伝方・鍛冶方・屋根方・瓦方に至るまでそれぞれ名がありますので、この絵図をみると、造営に勤しむ人々の掛け声や、槌音までもが聞こえてきそうな気がします。

 ◆乙訓寺縁起の流布

 隆光は伽藍の造営だけではなく、乙訓寺縁起の作成など、ソフト面にも力を尽くしています。また、古記録にもとづいて弘法大師の乙訓寺在住寺の事績を明らかにし、あらゆる道具類を新調して什宝目録を整備しました。乙訓寺の本尊は、頭部が八幡菩薩、体部が弘法大師の姿をした合體大師です。縁起の眼目はこの御本尊の霊験を説くもので、元禄9年にはふりかな付の略縁起【1】が印刷されて、広く流布しました。

 宝永2年9月の法式定をみると、隆光の思いがよくわかります。合體大師の前で祈ったのは、天下泰平・五穀成熟、大樹(将軍)殿下御父子御息災延命御子孫繁栄と牧野成貞の息災でした。綱吉の側用人牧野成貞は、綱吉、桂昌院と共に多額の寄進をした人物で、本堂や南門が葵紋であるのに対し、鐘楼の瓦や蟇股が牧野家の三つ柏文で埋め尽くされているのは、この縁故によるものです。定の最後に、宝永2年6月15日に亡くなった桂昌院の追福が記されていることも、目をひきます。

 将軍家や大名を檀家とする寺院となった乙訓寺は、将軍家に乙訓寺の御札を献上し、また尾張徳川家・松前家・朽木家・稲葉家などの大名にも進上し、その名が広く知られるようになりました。

◆名所となった乙訓寺

 元禄7年の設計に追加されて鐘楼と護摩堂が建ち、宝永3年(1706)には今日に続く寺観が整います。本尊の秘仏・合體大師は、元日と21日の縁日で庶民にも開帳され、また元禄8年から33年目となる享保13年(1728)と、それから33年目の宝暦10年(1760)には、特別の開帳が行われました。宝暦度の記録には、近在では粟生・五位川(山崎)・向日町・淀小橋・伏見京橋、洛中は大仏前・祇園前・北野天神境内・三条大橋・東寺四塚などに、開帳を知らせる立て札が建ち、境内には煮売屋や水茶屋が店をひらき、多くの参詣者で賑わったようすが記されています。

 現在、京都府立京都学・歴彩館のICOM京都大会記念特別展示で、「洛外社寺絵巻」という興味深い資料が展示されています。宇治から山崎まで、洛外の名所を網羅した江戸時代中期の絵巻で、「光明寺」とならんで「合體大師」とあります。宝形造の瓦葺き本堂や、流造の檜皮葺き八幡社は、乙訓寺にまちがいありません。洛外の名所として認識され、伽藍が描かれた初見の画像として、とても貴重な絵巻です。その後、隆光がまとめた乙訓寺の由緒【2】は、安永9年(1780)刊の『都名所図会』に絵入りで掲載されるようになり、不動の地位を獲得したのでした。

 

【1】乙訓略縁起 (版本1枚刷) 乙訓寺蔵 *ふりかな略

夫當寺ハ人王三十四代推古天皇の御宇にはしめて此地をひらき、伽藍を建立ありて則乙訓の郡を此寺に施し給ふ、ゆへに勅して乙訓寺と名給ふ、聖徳太子みつから十一面尊を刻て此寺の本尊としたまひ、又ハ八幡宮を勧請して此地の鎮守としたまふ、然後嵯峨天皇の御宇にいたりて此寺を弘法大師に給、鎮護国家の密場とし給ふ、或時天皇御脳しきりなりけれハ大師求圓持の法を修し給ふに、明星忽ちに影向ありて御脳則いへさせたまふ、故に今に至まて明星野といふハ此因縁也、鹿園院義満公の時此寺の衆徒争論の事ありき、義満光衆徒を御追放ありてこの地を南禅寺の伯英禅師に給ふに、夫より二百八十余年、禅者の所住となりぬ、然共合躰の霊験ハ日々に新なり、于時元禄六年忝台命有て此寺を大僧正隆光に給、又許多の黄金を給ぬ故に此伽藍を建立して再秘密鎮護の道場となる、正是合躰大師の霊験なるもの也  元禄九年三月日

 【2】『都名所図会』 *ふりかな略

大慈山乙訓寺ハ西岡今里にあり、當寺は推古天皇の御顔にして聖徳太子の開基なり、其後弘仁二年の冬、弘法大師別当職に補し、八幡宮の示現を蒙り、大師の像を彫刻し給ふに御首ハ八幡宮化現し神像に刻み給ふ、是密法擁護のしるしなりと、故に神佛合躰の御影といふ、當寺の本尊是也、例載三月廿一日開帳す、又寛平法皇脱履のはじめ行宮とし給ふ、是によつて法皇寺とも名づく、いにしへは方境広大にして伽藍厳重たり、中頃南禅寺の伯英和尚住職し、又武州護持院再興ありて真言宗とあらたむ

 

ー参考文献ー

・田良島哲「乙訓寺文書」『長岡京市史』資料編二 1992年 

・永井規男「寺院」『長岡京市史』建築・美術編 1994年

・田中淳一郎「寺社の再興と発展」『長岡京市史』本文編二 1997年

・長岡京市教育委員会『長岡京市の寺社』2000年

 

乙訓寺惣指図」(京都府立京都学・歴彩館蔵 中井家文書№234)

 107.1×88.6cm 関係文書6点一括封筒入り

(端裏)「自 今里村乙訓寺惣指図 元禄七甲戌年」

乙訓寺縁起 乙訓寺蔵 長岡京市教育委員会『長岡京市の寺社』

乙訓寺略縁起 乙訓寺蔵 長岡京市教育委員会『長岡京市の寺社』


乙訓寺定

乙訓寺蔵 長岡京市教育委員会『長岡京市の寺社』より

『都名所図会』 百瀬ちどり蔵