◆三思一言◆◆◆ 2024年3月17日
◆丈六の阿弥陀坐像
浄土谷は、西山の奥深く、山城と摂津の国境にあります。ここに坐す乗願寺の「大ほとけ」こと阿弥陀如来は、その謎めいた存在をめぐって、古くより多くの関心が寄せられてきました。その大きさは272センチ、いわゆる「丈六阿弥陀」です。
「丈六」とは「一丈六尺」を略したよびかたで、釈迦や如来の身長が1丈6尺(4.8m)あるとされたことから、古来より、仏の姿をこの大きさでつくることが理想とされてきました。例えば東福寺塔頭戒光寺の釈迦如来、兵庫県小野市浄土寺の阿弥陀如来などです。しかしこの大きさの立像をつくることは大変なので、その半分の坐った姿の仏がたくさん造られてきました。京都周辺の丈六阿弥陀坐像をあげれば、宇治平等院、日野法界寺、大原往生極楽院(三千院)などが有名です。
乗願寺の丈六阿弥陀如来は、檜材寄木造、漆箔仕上げ、彫眼。寺伝では恵心僧都(源信)開基とありますが、美術史としてはこの阿弥陀の年代を、平安時代終わりから鎌倉時代の初めとしています。細かくはともかく、そのお姿は「仏の本様(基本)」と仰がれた「定朝様」にのっとった大作で、かつ洗練された作風。拝すればなおのこと、いつ、だれが、どのような目的でつくられたのだろうという思いが込み上げてきます。
◆浄土谷・柳谷と弥勒谷
「浄土谷の大ほとけ」の謎を解くために視野を広げ、江戸時代の「浄土谷村絵図」(長岡京市教育委員会保管)を見てみましょう。これは氏神の御谷神社から発見されたもので、山・川・田・道が色分けで描かれ、浄土谷と柳谷の関係がとてもよくわかります。柳谷の楊谷寺には、古くから天皇家によって篤く信仰された観音が祀られ、この年代も乗願寺の阿弥陀と同じ頃、平安時代末~鎌倉時代とみられています。そういえば柔和で雅なお顔立ちの雰囲気が似ているような・・・。楊谷寺には、慶長19年(1614)に再興されたさいの縁起があり、ここでも浄土谷と柳谷が一体として認識されており、「白川(河)院」(1053-1129)・「近衛院」(1139-1155)による再興が具体的に述べられています。
柳谷から湧き出た水は小泉川となり山城へ、浄土谷から流れ出る水は水無瀬川となり摂津へ。そう、ここは国境の分水嶺で、この山陵一帯に天皇やその周辺の上級貴族が造営した大きなお寺があったのではないかというイメージがわいてきます。もう一歩進んであたりをみると、乗願寺の北、天王山の尾根を越えて山城方面への谷道沿いに「大日如来」や「弥勒」の石仏が今でも残っています、江戸時代中期に浄土谷を踏査・考証した学者によれば(『山州名跡志』『山城名跡巡行志』)、付近に「釈迦堂」「観音壇」「欄杆坊(ランカノボウ)」や、「安養ヵ谷」「丹屋(にや)の谷」「行道石」「院ノ墓(天子の陵)」がありました。
御谷神社からは、旧い地名の記された明治初めの絵図も発見されているので、それから現地比定できるものを地図上に示してみると(黄色のマーカー)、「弥勒谷十三仏」と乗願寺をむすぶ谷筋に、曰くありげな平坦地が幾つかあることがうかがわれます。もしかしたら、「平安時代から鎌倉時代にかけては、浄土谷・柳谷と弥勒谷を一体とする天皇家、あるいは上皇勅願の大きな山岳寺院だった」のではと想像してみました。そのイメージの真偽はともかく、江戸時代の浄土谷村は、上皇が在位している時は仙洞御料(御領地)、そうでないときは「御除料(幕府領)」で、年貢のほか特産の楊梅(ヤマモモ)と松茸を、毎年御所へ献上していました。江戸時代の絵図には赤い実のなる楊梅の木があちこちに描かれていて興味深いですね。
-参考文献-
・『長岡京市史』建築・美術編 1994年
・浅湫毅「京都西寿寺本尊の丈六阿弥陀如来像について-移座の経緯と製作年代」『学叢』第28号 京都国立博物館 2016年