◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(20) 2022.07.30
◆東山毘沙門谷の光明峯寺
摂政・関白として朝廷に大きな影響力を持った九条道家は、嘉禎2年(1236)に京都東山に東福寺の造営を発願します。その名は、東大寺と興福寺を合わせたもので、本尊は身の丈五丈の釈迦如来でした。同じころ、道家自身がその東福寺の北・毘沙門谷に「終老之地」として建立したのが光明峯寺です。
晩年に道家が定めた遺言(建長2年の処分状)によると、金堂・多宝塔・御影堂・伝法堂・禅堂・丈六堂・奥院・十三重塔・草堂など多数の堂舎を擁する大伽藍で、供僧は八口が定められ、この光明峯寺の経済を支える根本所領が、乙訓一帯に散在する小塩庄という広大な荘園でした。
元来小塩庄を監督するのは九条家と、そこから分かれた一条家が協力して行うようにとの遺言でしたが、南北朝の内乱・応仁の乱と時代の混乱の中で相争うようになり、これに子弟が門跡として入寺する随心院が絡まって、複雑な主導権争いとこれに呼応する武家の侵略が繰り返されました。
◆九条政基と下向に同行した面々
政基(1445-1516)は、文明8年(1476)、32歳で従一位・関白となり、公卿トップの座にありました。しかしこのころ山城・摂津・播磨・和泉・備中などに存在した家領経済は破綻の様を呈し、明応5年(1496)には借銭をめぐって従弟の唐橋在数を自邸で殺害し、勅勘を蒙るという有様。そのこともあって文亀元年(1501)、政基は和泉国日根野庄へ下向し、大木村長福寺に滞在して約3年半にわたる荘園支配を行います(『政基公旅引付』)。現地は守護と国人、根来寺の僧兵、これに対抗して逃散・一揆を繰り返す百姓らが、三つ巴・四つ巴の厳しい争いを繰り広げていました。
永正元年(1504)12月に日根野から帰洛した政基は、翌永正2年10月、小塩庄のうち小塩庄神足拘分3ヵ郷の年貢収納を是が非でもと、自ら神足城へ乗り込みました。長年3ヵ郷の下司を務めた神足氏は、前年の「薬師寺元一の乱」で没落し(れきし余話⒆神足氏と神足城-小塩庄下司・神足友春-)、勝龍寺や神足城は細川政元(幕府の管領で実力者)配下の香西氏(讃岐の武士)兄弟が押さえており、このまま手を拱いていては年貢納入の見込みがなかったのです。
しかし、ここでの滞在は予想以上のきびしいものでした。政基が記した7日間の引付、毎日のように九条邸の息子尚経との間で交わされる書状、同行した家司や家僕が相互に発信する現地報告からは、戦国の現実が如実に伝わってきます。この厖大かつ複雑な史料群を読み解くためには、まず登場人物の立場や関係を知ることが第一なのですが、これがなかなかに難問。まず、九条家一党の主要メンバーを紹介しておきましょう。
尚経(ひさつね、1469-1530)は文明14年(1482)に父・政基から家督を譲られた第15代目九条家当主。明応5年の唐橋在数殺害事件で共に勅勘を蒙っていましたが、文亀元年(1501)に関白・藤氏長者に就いており、政基は「殿下」とよんでいます。
澄之(すみゆき、1489-1507)は、尚経の20歳下の異母弟。わずか2歳で細川政元の養子となり、永正元年(1504)将軍の偏諱を賜り、澄之と名乗った直後。政基は「九郎」と幼名でよび、国方(香西方)の乱妨げるため「京兆」(細川政元)からの制札を繰り返し求めます。
随心院忠厳は、政基の兄・九条政忠の子。つまり政基にとっては甥、尚経にとっては従弟。随心院門跡に一条家の子弟が入った時は利害関係で対立しますが、この時は一族として小塩庄経営に加担し、神足城の政基のもとを訪れています。
白川富秀・信濃小路長盛は、九条家の家司で、小塩庄の奉行人。政基の日根野庄や小塩庄下向に随行した側近です。二人は、現地と九条邸の間を往復して、政基と尚経・忠巌の連絡調整を図りました。小塩庄入部当日の緊迫した事態を、城の指図入りで知らせたのがこの信濃小路長盛(10月14日付、小塩庄預所・芝堯快宛書状)です。
石井在利は九条家膝下の東九条庄の下司など、九条辺や紀伊郡の荘官を相伝する土豪石井氏の一族。四郎(芝盛親)・八郎(矢野在清)・秦左衛門尉(八郎の親・矢野治清)らは侍身分の家僕で、政基の在庄を支える実働部隊。特に秦左衛門尉は古市の政所に詰め、地侍や百姓と直接折衝する年貢取立の実務責任者。文亀2年(1502)頃より上使給3石を与えられ、政基帰京後も現地に留まり、最期は地元百姓らに殺されます。
これらの人物らの動きが九条家の小塩庄支配の総体であり、これに「国方」香西元能(彦六)や香西元秋(孫六)ら細川政元被官人、そして九条家方・国方のそれぞれに与して手先となり、敵味方に分かれて対立する地侍(九条家方が水垂の月山氏、国方が大畠・クホタや鶏冠井氏)、情勢を見ながらしたたかに立ち回る村の百姓らが絡んで、混迷と悲劇が起こつていくのです。
◆「引付」は如何に書かれたのか
「引付」は「忠堯(随心院の関係者ヵ)から白川富秀に宛てられた在庄を見舞う10月17日付書状(2紙)の裏に書かれています。したがって政基は、18日夜に18日条前半までを、19日夜もしくは20日の早くに18日条後半と19日条を書いたと思われます。内容は、前半が年貢取り立てに対する神足村・古市村の百姓や敵方の侍たちの動き、後半が18日夜に起こった水垂村披官人殺傷事件とそれに対する取り調べ状況。この「引付」を尚経に送ったさいの20日付け政基書状からは、「引付進らせ候、御一覧候て、やがて返し給うべく候」とあり、切迫した一大事を「引付」に記して、必死に伝えようとしたことがわかります。17日条の「クホタ・大畠より小西を以て申し送りて云う、今に於ては勤番べからず由、之を申す、元より此の方として仰せ付けざる上は、その心を得るの由、返答おわんぬ」と、18日条前半の「人数の事、催促の為め、富秀を出京せしめおわんぬ」の2カ所は、後半を記すさいに追加して書いた部分です。
◆「ふるきあと小塩の山の夜嵐に」-神足城の政基と水垂村被官人殺傷事件-
「引付」前半の13日条~17日条は、追記を除けば淡々とした文面です。しかし15日、16日、17日と尚経に宛てた書状からは、年貢収納がうまく進まないことや、庄内に不穏な空気があることを述べ、「京兆(細川政元)の下知(制札)、干用たるべく候」と、乱妨狼藉を停止する細川政元の制札を急ぐよう、養子に入った息子・九郎(細川澄之)の執りなしを、繰り返し訴えているようすがわかります。
18日には、2通の書状を尚経に。1通目は政元の制札をすぐにと述べた後、戸が一枚もない夜寒の心情を「ふるきあと(跡) おしほ(小塩)の山の夜嵐に かしら(頭)の霜(白髪)をかさねてとぬ(寝)る」という歌を添えて八郎(家僕・矢野在清)に持たせました。しかしその後すぐに、彦六(香西元能)方の乱妨が激しくなり、政元の制札が必要なことを繰り返す書状をもう1通出し、九条家の力だけではどうにもならないと感じた政基は、さらに信濃小路長盛・白川富秀にも、喧嘩沙汰になりそうな状況を、九条家の家司仲間に注進させます。
この政基の悪い予感は当たりました。18日の夜、九条家方の警固番に来た水垂披官人(月山氏の二人)が神足城の外で殺害され、ほかにけが人までも出たのです。「引付」19日条にはこの事件の顛末や、関係者を糾明するようすがくわしく記されています。「証拠を出せ」、「鶏冠井からの指示」と居直る敵方の面々に、やはり「京都の成敗(細川政元の制札)」を頼みとするばかりの荘園領主・九条政基の動揺が、19日付け、20日の書状から手に取るようにわかるのです。
◆神足・古市・勝竜寺 -浮かび上がる戦国の寺×城×村のイメージ-
「引付」を軸に、政基や奉行人の書状を読んで行くと、朧気ながら小塩庄神足氏拘分3ヵ郷のイメージが浮かんできます。まず第一は、下向の翌日に書かれた信濃小路長盛の書状です。「昨日(13日)之儀は、城の木戸を打ち候へと共。御とも(伴)人数うち入候、色々ひこ六(守護方の武士・香西元能)方より子細を申し候、さりながら四郎(九条家の家僕・芝盛親)立ち候て、扱いの分に候」とあり、城に入ろうとする政基一行に対し、彦六が木戸を閉ざして妨害したが、家僕の執り成しにより入城したことが記されています。長盛が書状の裏に素描した指図は、まさに方形の堀で囲まれた神足城と、勝竜寺を含む惣構(そうかまえ)にほかなりません。
ほかにも「戌剋、水垂の披官人等番に来たるを、拵口において国方衆窪田・大畠等が追い返した」【引付18日条】、「此の方の者(九条家方)の出入りを相支える(閉ざす)事を、奉行等が箭倉(櫓)で聞いた」【引付19日条】、「惣かまえの橋を引いて(取り払って)、出入りを邪魔した」【18日付け信濃小路長盛・白川富秀書状】と、攻防が繰り広げられた櫓・木戸門・橋の存在を裏付ける確かな史料があります。
ここに掲げた想像図は、これらの基本史料をふまえ、「洛外図屏風」(江戸時代前期)の構図を下敷きにして、「洛中洛外図屏風」(戦国時代)の描写を重ねて描いたイメージです。
参考文献
・田端泰子氏が『大山崎町史』本文編(1983)に、熱田公氏が『向日市史』上巻(1983)に、田中倫子氏が『長岡京市史』本文編二(1996)に論述されている。
・熱田公「小塩庄の九条政基」『長岡京古文化論叢』Ⅱ 中山修一先生喜寿記念事業会 1992年
・百瀬ちどり「『九条政基小塩庄下向引付』を読む」 同上
・廣田浩治「中世後期の九条家僕と九条家領荘園 九条政基・尚経期を中心に」『国立歴史民俗博物館研究紀要』第104集 2003年