◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話⒆附録 2022.05.12
◆小塩庄神足氏拘分3ヵ郷
「乙訓郡条里坪付図」とよばれ(原題はなし)、九条家に伝わった指図(宮内庁書陵部に現蔵)は、細川藤孝の勝龍寺城が築城される半世紀前の勝龍寺と神足城や、荘園支配のようすがわかる、とても貴重な資料(クリックすると拡大)です。乙訓郡条里のうち五条から六条の6里分の各坪の方格内に、坪並みと字(あざな)、縄手(なわて=道)、「ゆ(井=用水)」が記されています。
この図が作成されたのは16世紀初め、九条家やその姻戚随心院が、小塩庄の支配に躍起になっていた時のことです。年貢の取り立ては、字・面積・年貢高・納入義務を負う名請人(百姓や寺方)が記された台帳によって行われましたので、字(あざな)の位置を知る指図は必須のアイテム。領主側の奉行人か、現地の代官・職事によってつくられたものと見てまちがいありません。字は神足・古市・勝竜寺の3ヵ郷のところのみ記されていますので、政所の周りの特別な得分であった神足氏拘分を描いているのだとの認識が、この指図を読み解く重要なカギとなります。資料名は、「小塩庄神足氏拘分3ヵ郷条里坪付図」とした方が的確でしょう。
◆「字(あざな)」で比定する神足城
この指図を、乙訓で初めて紹介されたのは中山修一先生で、「棚次」「典薬」「綾取」「れう(寮)」の地名について、長岡京の東市に関連するのではないかと考えておられました。その後、服部英雄先生や金田章裕先生も、字の内容を詳しく分析され、室町時代の荘園資料として高く評価されています。
ここでは、指図西端の坪1列分を解読しておきました。五の坪のところに、ズバリと「かうたにしろ(神足城)」が記されていることに注目しましょう。条里復原図にあてはめると、そこはまさしく現在の神足神社に当ります(中山先生も指摘されています)。神足氏と総構に囲まれた神足城、そして小塩庄の関係については前項で紹介しましたので、合わせてご覧いただくと、より理解が深まるのではないでしょうか(神足氏と神足城総構-小塩庄下司・神足友春-)。ちなみに「ふるいちなわて(古市縄手)」と「きゃうかいとう(久我縄手)」との結節点は、今でもよく残っています。JR長岡京駅周辺は都市化が進み、「条里坪付図」の世界をイメージすることは困難ですが、YouTubeにその名残りを記録した映像を掲載しましたので、興味のある方はぜひアクセスください。
YouTube小塩庄神足拘分3ヵ郷を歩く 前編 神足・古市 久我縄手 YouTube小塩庄神足氏拘分3ヵ郷を歩く 勝竜寺
-参考文献-
・中山修一「室町時代の地名図の発見」 乙訓の文化遺産を守る会『乙訓文化』31 1974年
・服部英雄「中世荘園と館」 新人物往来社『日本城郭大系』別巻1 1981年
・金田章裕 「山城国乙訓郡の条里プランと16世紀の坪付図」 中山修一先生古稀記念事業会『長岡京古文化論叢』 1986年
・『長岡京市史』資料編二 1992年
・百瀬ちどり「乙訓郡の条里」『長岡京市史』本文編一 1996年
長岡町空中写真(撮影:1959 長岡京市教育委員会蔵)
勝竜寺から小塩山を望む
久我縄手と古市縄手の結節点
久我縄手から水垂方面を望む