◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(16) 2021.10.13
◆『大原野千句』懐紙と「連歌記」
今から450年前、元亀2年2月5日から7日までの3日間、細川藤孝主催の千句連歌会が興行されました。花の名所・大原野勝持寺で行われたこの連歌会は、若き細川藤孝(幽斎)と連歌師紹巴の代表的な興行として広く知られています。金銀泥・四季山水の絵懐紙(10冊と追加1枚)が総て伝わり(勝持寺蔵・京都国立博物館寄託)、その様子を記した「連歌記」も添えられ、その時の全貌を知ることができます。
「細川家記」によれば、第9冊目の百句(発句:都人まちてまたるな山桜)が藤孝自筆で、この外発句者がそれぞれ執筆し、追加は熊千代(後の忠興)が書きました。また「勝持寺文書」によれば、それらを納めた「墨(黒)漆」の箱があり、当時13歳の忠興の筆による「大原野千句」の文字(金粉)があったようです(『大日本史料』第十編之五、未刊『乙訓郡誌』史料編)。
◆天龍寺妙智院策彦と紹巴
「連歌記」は、細川藤孝の依頼によって天龍寺の策彦(さくげん)周亮(1501-1579)が記したもので、原本が天龍寺妙智院に、臨済宗黄檗宗の獨湛(1628-1706)による写しが勝持寺にありました。策彦は詩文に優れ、明との外交にも功績をあげたことで名高い学僧です。中本大先生の論文を参考にしつつ、ここでは宇土細川家に伝わった写しを紹介しておきましょう(九州大学附属図書館細川文庫)。
「連歌記」がつくられたのは「元亀辛未(元亀二年)」の「季春下浣(3月下旬)」。大原野千句から1月余り後のことです。「兵部(藤孝)予に嘱するを以て文を記せしむ」とあり、また「況や予足未だ其地へ履ず、身其の席へ倍せず」とことわっていますので、実際には大原野には行ったことのない策彦に、藤孝が依頼したものであることは明らかです。策彦と藤孝のつながりは、大原野千句の直前に興行された「大覚寺和漢聯句」(1月29日:「言経卿記」)に同座していることに見られますが、何より大きいのは紹巴の存在です。
紹巴(1524‐1602)は連歌・和歌を里村昌休に学び、三条西実条・近衛稙家・山科言継ら公家のもとで修業を重ね、高い能力と幅広い人脈をもっていました。策彦とは十数回の和漢聯句を行っており、永禄11年(1568)には2度の両吟連歌(二人で読み合うこと)をしていますので、実力者同士の深い雅交がうかがえます。「連歌記」では紹巴について「連歌を以て良く世に鳴る者なり、群挙げて宗匠の材と為せり」「蓋し宗祇・宗長を合わせて一人と為す」と最大級の賛辞を寄せており、中本先生は、この「連歌記」の作成は紹巴の主導による可能性が高いとまでいっておられます。
◆兵馬の鞍上にありても、亦た口に吟を絶えず
「連歌記」には、藤孝についての興味深い人物評があります。まず注目されるのは「今茲(ここ)に仲春の初め、枢府幕下兵部侍郎藤孝公、仮に華構(かこう:立派な造りの建物)を設けて、某(そこ)地に於て瓊莚(けいえん:文雅の会)を開き、随所において雅遊すること三日、連歌千唱白を浮し、紅を跋せんとす」の部分です。永禄11年、義昭・信長と共に入京した藤孝(当時38歳)は、義昭のもとで申次として近仕しつつ、信長の命により西岡勝龍寺を拠点に各方面の戦に出陣します。この当時はまだ義昭のもとでの活動が顕著で、「枢府幕下」は当時の藤孝の立場を謂い得ているのです。
もう一箇所は「細川氏の華族也、・・・雅にして麁(そ)ならず、風流にして事を好み、兵馬の鞍上にありても亦た口に吟を絶えず」と、藤孝の人物像をズバリと表現しています。温厚な性格と風流を好む人柄は、自他共に認める実像とみてまちがいありません。三好長慶の「瀧山千句」や「飯盛千句」のような千句連歌を、由緒ある「長岡」の故地・勝持寺で興行することは、兵馬の鞍上にあっても(戦の最中でも)口に吟が絶えない(いつも歌を詠んでいる)藤孝にとって、西岡入部のメルクマール(目標・到達点)だったのでしょう。
◆「千句」の連衆
「連歌記」には連衆について、「聖護門主・三条亜相・之が遨頭たり、紹巴・昌叱・心前これに陪伸す」と記しています。「聖護門主」は聖護院道澄。藤孝・紹巴共通の師である近衛種家の子で、藤孝と生涯を通じて親交を続けました。慶長4年に道澄が近江園城寺(三井寺)を再興したおりにも、幽斎は和歌を寄せています(玄旨公御連歌)。「三条亜相」は、紹巴の恩人である三条西実条の子・三条西実澄(後の実枝)。「連歌記」には「則ち天資英抜にして・・・倭歌を稔るは天下の嘉声妙たる者久し・・・」と、天与の才能と名声を称賛しています。実澄は、翌年に藤孝への古今伝授を開始しますので、大原野千句での同座はとりわけ意味深に思えるのです。もしかしたら、ここでもう実澄の「古今伝授を伝えたい」という意志と、藤孝の「古今伝授をうけたい」という強い願望があり、それに向けて紹巴がお膳立てしたのかもと勘繰りたくなります。
そのほか連衆として、昌叱(里村昌休の子)・心前(紹巴の弟子)、玄哉(紹巴の友人で茶人・連歌師)ら紹巴周辺の連歌師がずらりと並びます。このなかで特に注目される一人が「宗及」です。この名からすぐに思い浮かぶのは堺の茶人「天王寺屋(津田)宗及」。織田信長・明智光秀らとの茶事をとおした活動は余りにも有名ですが、実は紹巴や藤孝らと度々連歌座を共にする連歌師でもありました。『天王寺屋会記』(「他会記」元亀2年2月晦日条)には、紹巴から「詠歌大概(藤原定家の歌論書)」の講釈をうけたことが記されています。しかし「自会記」には、大原野千句開催のころ、堺で茶事が催されていることがみえますので、大原野千句に出座した「宗及」が津田宗及なのかは、もう少し検討を要します。
しかし、藤孝が門跡や公家、幕閣や信長の家来、そして連歌師や茶人らと幅広く交流する人格の持ち主であったことは間違いはないでしょう。ここではもう1点、信長の側近で茶人としても名高い松井友閑宛の書状(革島家文書)を紹介します。文意は先日会った時によくしてもらったことへの礼で、「もっと雑談したかった」と書きはじめ、近いうちに催される大覚寺千句へ出座するので、またその時の様子を知らせると記しています。藤孝はかつて永禄13年の友閑興行の連歌会(岐阜)に参会しており、それ以来の昵懇のようすが目に浮かび、大覚寺千句の高揚を共に分かち合いたいという気持ちが滲みでている文面です。
ー参考文献ー
・土田将雄『続細川幽斎の研究』 笠間書院 1994年
・中本大「『大原野千句連歌記』について」 立命館大学日本文学会『論究日本文学』69号 1998年
・楊昆鵬・中村健史「策彦紹巴両吟和漢千句(国会図書館本)翻刻と解題」『京都大学國文学論叢』 2014年
・『未刊「乙訓郡誌」稿』史料編 向日市文化資料館 2017年
・竹本千鶴『松井友閑』 人物叢書 吉川弘文館 2018年
・『特別展 光秀と幽斎~花開く武将文化~』 京都府立山城郷土資料館 2019年
・鶴崎裕雄「戦国時代の武将連歌-明智光秀の五吟一日千句を中心に-」『国文学』104号 2020年
「大原野千句連歌記」読み下し