三思一言 勝龍寺城れきし余話⒂ 2021.08.03

勝龍寺城天主と開田御茶屋

◆古今伝授の舞台へ

 さる7月18日、長岡京市ふるさとガイドの会主催による歴史講演会でお話しをしました。昨年7月の予定が一年遅れとなったものですが、奇しくも今年は勝龍寺城築城450年の節目にあたります。そこで「古今伝授の舞台へ」というメインタイトルのもと、元亀~天正(三条西実澄→長岡藤孝)と文禄~慶長(細川幽斎→八条宮智仁親王)の二つの古今伝授の歴史的意味を考え、その場となった勝龍寺城天主と開田御茶屋の姿を探り、ひいてはそこから長岡藤孝-細川幽斎の人物像も追ってみようという、欲張りな内容です。コロナ禍と不安定な天候のなか御来聴いただいた皆様、ありがとうございました。また講演会の準備や運営にあたられた関係の皆様、ご苦労さまでした。

 講演のポイントや、特に強調したい内容を少しばかり補記しておきますので、興味のある方はレジュメを参照しながらご覧ください。

◆幽斎没後400年記念事業から10年

 幽斎没後400年にあたる平成22年(2010)は、国立博物館での大規模な展覧会が催され、また幽斎の人となりに関する特集が出版されました。その後の動きとして大きな内容をあげれば、まず宮内庁書陵部から「古今伝受資料」(桂宮家伝来)が公開され、インターネットで画像が閲覧できるようになりました。幽斎から八条宮智仁親王への古今伝授に関する史料はもちろん、三条西実澄から長岡藤孝への古今伝授史料が受け継がれています

 もう一つは分散していた未公開の「兼見卿記」がまとめられ、活字本として公開されたことです。これにより、幽斎の政治的な動きと共に、文化面での人脈や交流が手に取るようにわかるようになりました。

◆幽斎直伝の「古今伝授座敷模様」

 「古今伝授座敷模様」は、幽斎が勝龍寺城において三条西実澄から切紙伝授をうけた時のようすを、智仁親王に書き写させたものです。座敷は「殿主上壇」、つまり「天主の上段の間」と明記されており、勝龍寺城天主を幽斎自らが語った貴重な史料です。ここでは実澄の「伊勢物語」講釈や紹巴の「源氏物語」講釈があり、藤孝・紹巴の両吟連歌も催されたのです。

◆八条宮学問所から開田御茶屋を経て「古今伝授の間」へ

 幽斎から八条宮智仁親王への古今伝授が行われた学問所は、家康の京都御所再編に伴って今出川屋敷へ移されます。それを第2代八条宮智忠親王が火災の難を心配して、勝龍寺城跡を見晴らす小高い丘に移築したのが開田御茶屋の始まりです。元禄期になると幽斎に心酔した霊元上皇が、開田天神と開田御茶屋の再興を図り、御茶屋は大池(八条ヶ池)畔に移され、新たに台所や客殿が増築されました。江戸時代後期になると再び主棟のみとなり、そして明治維新を迎えたのです。

 御茶屋の部材は縁のある細川家へと運ばれ、その後30年の時を経て熊本水前寺成趣園に再生されたのが、現在の「古今伝授の間」です。幾多の流転を潜り抜けながらも当初の古材が残り、簡素な床構えや筬欄間、花頭窓の付書院からなる数寄屋空間に、幽斎と智仁親王の深い交流の軌跡が偲ばれます。

◆文化の天下人・細川幽斎

 国文学者の鶴崎裕雄先生は、師である中村幸彦先生の「平安時代の文学は定家に入ってまとめられ、次へと伝わり、中世の文学は幽斎に入ってまとめられ、次へと伝わった」ということばを引き、「私にとって幽斎はローマ」と述べておられます。今回の講演で、私は二つの古今伝授を里村紹巴・吉田兼見・八条宮智仁親王らキーマンとの関りと共に述べ、織田信長-豊臣秀吉ー徳川家康に重用された幽斎を「文化の天下人」と表現してみました。幽斎は動乱の戦国時代を強く生き抜き、終生にわたり学問の道に励み、散在していた各流の古典を集め、それに注釈を加えて大成しました。さらに大切なことは、智仁親王を始め中院通勝・烏丸光広・松永貞徳ら有能な弟子たちを育てたことです。彼らが後に幽斎の教えを各方面に伝え、出版文化の広まりと共に古典文化が庶民にまで普及していく原動力となりました。その意味でも「文化の天下人」として、人間・幽斎の事績を正当に再評価してよいのではないでしょうか。

 

勝竜寺城公園 奥にみえる一段高い土塁が天主跡

長岡天満宮開田御茶屋跡に建つ石碑


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