◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話⒀ 2020.01.20
◆明智光秀の娘「たま」
明智光秀の娘として生まれ、16歳で長岡藤孝の嫡子・忠興に嫁いだ「たま」。父の謀反による過酷な運命のなかでキリスト教に入信し、38歳で「ガラシャ」として非業の最期を迎えた彼女の生涯は、オペラや小説の題材ともなり、今もなお多くの人を惹きつけます。近年、ガラシャに関する資料やイエズス会の関連資料が広く公開され、後世のガラシャイメージを含め、様々な立場で広く研究が進められています。
「たま」の前半生を記す基本資料は、江戸時代中期に完成した細川家の家譜(『綿考輯録』全66冊)で、巻9に勝龍寺城における「たま」と忠興の婚礼の記事があり、巻13が「秀林院(ガラシャ)」の最期と殉死者の特集となっています。ここにはガラシャの人柄にまつわるエピソードや辞世の歌なども掲載されており、ガラシャを知るためにはまずこの本です。
しかしガラシャの前半生については、他に史料がないため、わからないことがたくさんあります。一方、大河ドラマ「麒麟が来る」ブームのなかで数多くの展覧会が催され、また講演や出版物等をとおし、光秀と藤孝の関係を改めて考える貴重な機会を得ることができました。「たま」と忠興が生きた時代と、勝龍寺城の歴史的な意味を、もっと深く探りたいものです。
◆二つの「九曜紋鐘」
ガラシャゆかりの品々のなかで、これまで最も感銘を受けたのが、二つの「九曜紋鐘」です。幽斎没後400年を記念した京都国立博物館の展覧会に、二つが並んでありました。ヨーロッパの教会鐘の形をしており、細川家の家紋「九曜紋」を大きく鋳出しています。二つとも高さ80センチ余りとほぼ同じ大きさ、そして同じ工房でつくられたもので、一つは永青文庫、もう一つは南蛮文化館(大阪)の所蔵品。後者は元和2年(1616)の津山城築城の際、小倉城の忠興が森忠政に贈ったものに当たり、長く津山城の天守にあったようです。
永青文庫所蔵の鐘は、忠興がガラシャの追悼のため小倉城下の南蛮寺に施入したという説がありますが、それを裏付ける確実な史料はありません。しかし何故、このような趣向の鐘がつくられたのでしょうか。この二つの鐘が「細川/ガラシャ」の死を如実に象徴しているかように思われ、並んでいた光景をいつまでも忘れることができません。
ー参考文献ー
・『綿考輯録』第二巻 出水叢書2 出水神社 1988年
・東京国立博物館・京都国立博物館・九州国立博物館『特別展 珠玉の永青文庫コレクション 細川家の至宝』展示図録 2010年
・金子拓「歴史をつくった記憶」『記憶の歴史学』 講談社選書メチエ 2011年
・熊本県立美術館『永青文庫展示室開設10周年記念・細川ガラシャ』 2018年
「京の記憶アーカイブ」革島家文書から、光秀・藤孝の花押
大阪玉造細川屋敷跡