◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話 ⑿ 2021.01.18
◆「伊勢物語闕疑抄」とは
細川幽斎の古典注釈書として最も有名なひとつが、『伊勢物語闕疑抄(いせものがたりけつぎしょう)』で、室町時代の「伊勢物語」、とりわけ三条西家に伝わった解釈の集大成と評価されています。幾つかの写本のほか、寛永11年製版本・寛永19年製版本・慶安元年製版本・承応2年製版本・万治2年製版本など、江戸時代初めから何度も出版されました。
この注釈書には、幽斎(法印玄旨)や中院通勝(也足軒素燃)が書いた奥書があり、草稿の執筆や写本作成の経過がとてもよくわかります。そればかりではなく、じっくり読むと幽斎の古典に対する熱心な姿勢や、誠実な人柄に思いを馳せることができます。よく知られている資料ですが、2020年12月に開催された竹島一希先生の御講演に啓発されて、善本として信頼されている京都府立京都学・歴彩館本(慶長19年、祐孝転写)を紹介しましょう。
◆きっかけは、八条宮智仁親王への講釈
「伊勢物語」の注釈書をまとめることは、幽斎の長年の願望でした。その夢を実現するきっかけとなったのは、八条宮智仁親王から講釈の要請をうけたことです。
幽斎はまず、かって「長岡(勝龍寺城)」で「三光院内府(三条西実澄→実枝)」から講釈を受けた聞書(ノート)をみつけます。元亀2年(1571)に築城した勝龍寺城は、若き日の幽斎(細川藤孝)が「長岡藤孝」と名乗って戦国大名へと飛躍し、さらに三条西実澄から古今伝授をうけたところでもあります。その時、実澄から「惟清抄」(いせいしょう。清原宣賢の講釈をうけて三条西実隆がまとめた「伊勢物語」の注釈書)と自分の講釈を合わせて取捨選択をするようにとの厳命をうけていたのでした。いわば師からの宿題を、この時とばかりに果たそうというのです。
幽斎は、恵雲院(九条稙通)・大覚寺義俊・聖護院道増、そのほか宗養・紹巴から聞いた諸説をはじめ、「愚見抄(一条兼良の注釈書)」・「肖聞抄(宗祇・肖柏の注釈書)」を合わせ、三条西家の説にしたがって取捨したと書いており、念願の古典研究へ取り組もうとする意気込みが伝わってきます。タイトルの「闕疑」は「疑わしいところを省く」という論語から引用された言葉ですが、最後に「その趣旨に十分添うものになっているだろうか」と吐露し、あくまでも謙虚な心情が滲みでています。
「伊勢物語」の注釈を終えたのは文禄5年(1596)2月15日。智仁親王へ講釈が開始されたのは、それからひと月余り後の3月21日のことです。幽斎と仲の良い学友である吉田兼見の日記には、この時の幽斎のようすが逐一記されています(『兼見卿記』文禄5年3月21日条・3月28日条・4月5日条・4月17日条・4月19日)。途中幽斎の病などもありましたが、4月19日に無事講釈を終えました。智仁親王がこの時の内容をまとめた「伊勢物語講釈聞書」(宮内庁書陵部蔵)があり、講釈は12回に及んだことがわかっています。この八条宮智仁親王との出会いは、その後の幽斎の人生にとって大きな意味をもたらすことになりました。興味のある方は、別稿(細川幽斎と八条宮智仁親王)をぜひご覧ください。
ー参考文献ー
・青木賜鶴子「細川幽斎の伊勢物語注釈」『細川幽斎 戦塵のなかの学芸』 笠間書院 2010年
「伊勢物語闕疑抄」下巻奥書 祐孝転写本
京都府立京都学・歴彩館蔵 京の記憶アーカイブ