◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話⑺ 2020.09.23
◆天橋立に遊ぶ
西岡において大名としての礎を築いた長岡藤孝は、天正8年(1580)8月に丹後国へ移封となり、居城を宮津と定め、以後城普請・検地などの領国支配を進めていきます(細川家文書)。
一方、古来からの名所「天橋立」を手中にしたことは、文化人藤孝にとって大きな喜びでした。さっそく入部の翌年(天正9年4月12日)には、明智光秀・里村紹巴・津田宗及らと「天橋立」で連歌を興行しています(宗及茶湯日記)。
しかし天正10年6月、本能寺の変で信長が討たれ、またしても藤孝は大きな転機を迎えました。剃髪して家督を嫡子忠興に譲り、幽斎・玄旨法印と名乗るようになった藤孝は田辺城に移ります。『兼見卿記』には、秀吉の絶大な信頼のもとで丹後と京を往復し、確たる立場を得て活動する幽斎の動きが逐一記されています。
ここでは「天橋立」への思いがわかる一例を紹介しておきましょう。天正12年11月2日、兼見のもとへ「禁裏へ献上する屏風ができたので一覧すべし」という幽斎からの書状が届きました。屏風は紹巴の所にあり、一双の片方が「富士山」、もう片方が「天橋立」が描かれる「比類なき」素晴らしいものでした(『兼見卿記』天正12年11月2日条)。この日は仙洞御所の普請が始まった日で、正親町天皇からは富士と橋立の短冊が下され、翌々日、幽斎は丹後へ帰国しています(同11月4日条)。
◆幽斎の在京料3000石
天正14年4月1日、幽斎は秀吉から政治的・文化的な働きに対する在京料として3000石を与えられました(細川家文書)。内訳は勝龍寺785石2斗・神足1032石・上植野1000石・石見村82石8斗で、いずれも勝龍寺城膝下だった村々です。前年の太閤検地により蔵入地(秀吉の領地)となった所から、旧領西岡の一部を割き与えられた形ですが、幽斎にとっても大満足の計らいだったことでしょう。
さっそくその年8月には勝龍寺へ下向し(『兼見卿記』天正14年8月30日条)、年末には竹奉行河原定勝の上竹検地に対応して、西岡経由で丹後に帰国しました(同天正14年12月9日条)。翌年正月には、再び上京。27日には兼見と夕食を共にしていましたが、そこへ秀吉から祗候すべしの使いが来て、急ぎ京の旅宿へ帰るといった慌ただしい日々です(同天正15年正月27日条)。
その年2月29日は、大坂城で秀吉自ら天主の披露があり、摂家・門跡衆・公家衆こぞっての下向です。翌日兼見は幽斎が滞在する大坂の旅宿を訪ね、紹巴・昌叱らとともに終日相談(同天正15年2月28日~30日条)。そしてあくる日の3月1日、幽斎と同道して守口までは船、そこからは陸路乗馬、枚方で休息、夕方に八幡に到着し、勝龍寺に一宿しています(同3月1日条)。秀吉への祗候のため、丹後ー京ー大阪を往来する幽斎にとって、勝龍寺知行の意味するところがよくわかる記事です。
◆吉田兼見の丹後下向
「丹後がお気に入り」の幽斎の心情を示す記事を、もう一つ紹介しましょう。勝龍寺知行が一段落した天正14年10月、幽斎は兼見に「是非丹後下向を」と強く勧めます。15日未明、出立した兼見は幽斎の旅宿で落ち合い、樫原(京都市西京区)で朝飡。その日は須知(京丹波町)に一宿。翌日未明に発足し、国境付近で丹後衆の歓迎を受け、船にて田辺の幽斎館へ到着。幽斎一家への挨拶や家中の歓待があり、24日には幽斎と共に田辺から5里の宮津へ訪問。兼見は「田辺・宮津城中普請驚目畢」と城の様子に感嘆しています(『兼見卿記』天正14年10月13日~24日条)。
25日はいよいよ「天橋立」見物です。智恩寺で休憩しつつ縁起等を一覧した後、渡船から「日本之奇特、下界建立之最初」と、神話の世界を心静かに思い浮かべながら橋立を越えました。そして籠神社から成相寺へと廻り、その日は峰山の清水清久の宿所にて一泊。26日は再び宮津、27日は田辺へ帰城。いたるところで風呂・囲碁・茶湯と幽斎家中や女房衆あげての歓待です。ご機嫌の幽斎と共に帰洛の途に発ったのは30日未明で、この時も須知で一泊し、翌日吉田に帰宅しています(同10月27日~11月1日条)。旅からひと月後には、幽斎が「丹後国橋立縁起」を兼見のもとに持ち込み、不審の箇所を調べて校訂するという、飽く迄も学問好きな気の合う二人です(同12月3日~9日条)。
-参考文献-
・『新訂増補 兼見卿記』第ニ 史料纂集172回配本 八木書店 2014年
・『新訂増補 兼見卿記』第三 史料纂集173回配本 八木書店 2014年
天橋立と智恩寺
智恩寺
田辺城跡