三思一言 勝龍寺城れきし余話⑷  2020.06.13

長岡藤孝と三条西実枝

◆混迷の政局-流浪と寄合-

  天文3年(1534)、足利将軍の直臣である三淵晴員と儒学者清原宣賢の女との間に生まれた熊千代(後の藤孝、父母については諸説ある)は、父と同様将軍に近仕する細川高久・晴広親子のもとで養育されました。父や養父、そして叔母も将軍に近仕するという環境で育った熊千代は、天文10年、初めて足利義晴に出仕します。

  天文15年12月、義晴は嫡子義藤(天文23年に義輝と改名)に将軍を譲り、その前日、熊千代は義藤の偏諱をうけて藤孝となりました。ここから政局の混迷のなかで、将軍とともに流浪する藤孝の歩みが始まったのです。天文21年4月、20歳で従五位下・兵部大輔に叙せられますが、その直後、将軍義藤とともに霊山城から近江朽木谷へ逃亡し、ここで5年間暮らします。

 朽木谷へは管領細川晴元と奉公衆のほか、前関白近衛稙家・大覚寺准后義俊・聖護院准后道増らが同行しましたので、若き藤孝は彼らから薫陶をうけ、連歌一座に加わり、古典籍の書写に励んだのです。

 永禄元年(1558)年、将軍義輝は帰洛しますが、永禄8年、三好三人衆と松永久通に殺されてしまいます(自害説もある)。藤孝は興福寺一乗院の覚慶(義輝の弟、後の義秋→義昭)を救出し、その後近江和田、近江矢島、越前一乗谷等を転々とする流浪生活を送ります。一乗谷は祖父清原宣賢も骨を埋めた地で、約2年の月日をここで過ごしました。

◆信長入京-京での出会い-

 足利義昭の閉塞状況を打開したのが織田信長です。永禄11年(1568)7月、義昭は美濃立正寺で信長と対面し、やがて信長と共に入洛へと動いていきます。9月22日に桑実寺、26日には琵琶湖を渡り三井寺から京へ。そして京から勝竜寺表、摂津へと進軍しました。

 10月22日、義昭は将軍宣下をうけます。このころの藤孝は、義昭のもとで申次を勤めながら度々転戦し、そして各所の連歌興行にもさかんに出座していました。義昭・信長のもとで京に戻れたことは、藤孝にとって大きな意味をもたらしましたが、同じように甲斐・駿河に下向していた三条西実澄(後の実枝)も、帰洛を果たしていたのです(永禄12年6月26日)。

 こうして二人は、京周辺で催される連歌興行に同席するようになりました。たとえば元亀2年(1571)2月5~7日にかけて勝持寺で催された連歌会(大原野千句)をみると、そのような二人と周辺の人々の交流がよくわかります。この時藤孝38歳、実澄62歳。藤孝が古今伝授の誓状を実澄に提出したのは、翌元亀3年12月6日のことでした。

◆誓状と証明状-転機を克服-

 誓状提出の日、実澄邸で初めての古今和歌集の講釈がありました。以後、しばらくは出陣の合間を縫って実澄邸と藤孝邸で断続的に講釈が進められたようすが、藤孝の聞書(講義ノート)からわかります。天正2年2月21日(恋歌ノ一)・23日(恋歌ノ二)・24日(恋歌ノ三)・25日(恋歌ノ四)・27日(恋歌ノ五)・28日(哀傷ノ歌)は多聞城、3月1日(雑歌ノ上)は春日、2日(雑歌ノ下)、同3・4日(雑体)・5日(俳諧歌)は春日西屋と、実澄が奈良まで下向しての講釈でした(『大日本史料』十編の十)。これは藤孝が多聞城の留守番に当っていた時のことで(明智光秀と2月5日に交代、3月9日に柴田勝家と交代)、3月7日、二人は春日社西屋において巻第二十の「大歌所御歌」「東歌」の詠み合わせを行い、2年余りに亘った古今集の講釈を終えたのです。その翌日、実澄は輿と馬で京へ帰っていきました(尋憲記)。

 そして、いよいよその年の6月17・18日の両日、勝龍寺殿主(天主)において「切紙伝授」が行われます。切紙とは注解の中で特に秘すべき内容の一部を認めた書付で、口頭だけではなく手交で授けるのです。藤孝はこの後、本願寺攻めや越前一向一揆追討に参陣したためか、古今伝授の証明状が出されたのは、天正4年10月11日のことでした。証明状には「麟角之志不愧牛毛之才」とあり、藤孝の意志と才能を褒め称えたうえで、他言を固く禁じる実枝の言葉が印象的です。

 誓状と証明状(いずれも八条宮智仁親王書写)は、他に例をみない念入り、かつ丁寧な文面です。そして「切紙伝授」の座敷模様も、それまでに見られない独特の儀式のありようです。この間、実澄は実枝と名を変え昇進し、藤孝も姓を長岡と変え、信長配下の大名として成長していきました。三条西家相伝の古今伝授が藤孝に伝えられた経緯を追うと、明日をも知れない厳しい時代の緊張と、その中で転機を克服していく双方の生き方を感じることができます。

 天正7年正月24日、三条西実枝は享年69歳で病没します。その日長岡藤孝は、吉田兼見と共に見舞いに訪れましたが、実枝は息をひきとったところでした(『兼見卿記』)。

 

ー参考文献ー

・川瀬一馬「古今伝授について-細川幽斎所伝の切り紙書類を中心として-」『青山学院女子短期大学紀要』第15号 1961年

・『古今切紙集』京都大学国語国文資料叢書 臨川書店 1983年

・小高道子「三条西実枝の古今伝授-細川幽斎への相伝をめぐって-」『和歌の伝統と享受』 風間書房 1996年

・小川剛夫「細川幽斎-人と時代-」『細川幽斎 戦塵のなかの学芸』 笠間書院 2010年

・山田康弘「足利将軍直臣としての細川幽斎」『細川幽斎 戦塵のなかの学芸』 笠間書院 2010年

・海野圭介「細川幽斎と古今伝受」『細川幽斎 戦塵のなかの学芸』 笠間書院 2010年

・長谷川千尋「細川幽斎連歌序説」『細川幽斎 戦塵のなかの学芸』 笠間書院 2010年

・加藤弓枝『細川幽斎』コレクション日本歌人選033 笠間書院 2012年

・小高道子「古今伝受から御所伝授へ-歌神と古今伝受後奉納和歌-」『歌神と古今伝受』 和泉書院 2018年

・『古今伝受資料』一・二 宮内庁書陵部 2019年

 


 

 


近江朽木荘 足利将軍岩神館

一乗谷朝倉氏館跡イメージ(復元)

桑実寺


勝持寺

多聞山城跡

春日大社