三思一言 勝龍寺城れきし余話(31) 2024.11.10

藤孝、似合いの忠節を致し候-細川家文書大公開展-

◆信長の手紙-珠玉の60通大公開-

 2024年10月、東京の永青文庫において、信長をはじめとする戦国時代の書状を「一挙公開」という展覧会が始まりました。熊本大学永青文庫研究センター開設15年記念ということで、信長と藤孝の新発見書状、光秀・秀吉関連文書など、長年の研究成果を踏まえての充実した内容。さらに、その中心を担っておられる稲葉継陽先生のご講演も拝聴いたしました。

 藤孝が勝龍寺城を拠点としたのは天正8年(1580)までで、8月に大坂本願寺との戦が終結すると、丹後で次なる任務にあたります。今回の展覧会は、この丹後において藤孝がどのように『本能寺の変』をうけとめたのかを知る、絶好の機会でもあるのです。図録は全編カラー写真に翻刻文・現代語訳がついており、これらを通読することで、藤孝と信長・光秀・秀吉の関係をあらためて考えることができました。

◆元亀3年・信長「南方あたりの衆誰々によらず、忠節をぬきんずべくに付いては、召し出され然るべく候」

 新発見の信長書状は、元亀3年(1572)と推定される8月15日付けで、細川家に伝来する信長書状60通のうち最も古く、目の覚めるような麒麟の花押。内容は「八朔の祝儀」に対する礼状ですが、藤孝以外の義昭の奉公衆からは、なんの礼もないと述べています。翌元亀4年になって露わになる義昭との対立の兆しを、信長は半年ほど前から感じていたことがわかるのです。このような状況での藤孝の好意がよほど嬉しかったのか、お返しは鹿毛(かげ・茶褐色)の馬。

 そして文末には、南方(京より南、山城・摂津・河内方面)の「諸侍」らのうち、味方になってくれるものがいれば引き入れてほしい、そのためにはあなたの働きがとても大事と書き添えています。この一文こそ、信長が藤孝を勝龍寺城(元亀2年に普請)に置いた目的です。京の義昭や側近衆とは少し距離を置くことで、情報収集や意見交換がより可能になったのかも知れません。畿内情勢や義昭方との和睦交渉を記した、元亀4年2月付けの書状3通(黒印・朱印・花押)、そして3月7日付けの「五畿内・同京都の躰一々聞き届け候、度々御精に入れられ候段、寔(まこと)に以って満足せしめ候」から始まる17ヵ条の黒印状は、「天下再興」ために意を尽くそうとする信長・藤孝の切々とした動きを伝えて、「圧巻」の一言に尽きます。

 複雑なやりとりを経ての7月5日、義昭は宇治真木嶋に再蜂起し、信長は7月7日に妙覚寺へ着陣。16日には出陣して、宇治川を二手に分かれて進みます。藤孝は、川下から羽柴秀吉・明智十兵衛・荒木摂津守らと共に渡河。そして18日、信長軍の総攻撃で義昭はついに城を出て、秀吉の警固のもと、河内若江へ送られていきました(池田本「信長公記」巻6)。藤孝が、信長から西岡の一職支配を認める朱印状を与えられたのは、まさにこの渦中、元亀4年7月10日のことでした(細川家文書)。

◆天正10年・光秀「思案候ほど、かようにあるべきと存じ候」

 天正10年(1582)6月2日に勃発した『本能寺の変』の真実は、この1通に・・・。それが、6月9日に長岡藤孝に宛てた、光秀自筆の「覚条々」3ヵ条です。

 光秀は、信長を討ったその日のうちに大津へ向かい、3日・4日と近江を平定して、5日には安土城へ入ります。7日は朝廷からの勅使として派遣された吉田兼見と面会し、「このたびの謀叛の存分(思い)を雑談」しました。翌日には摂津出陣の先発隊が、山科・大津へ着陣し、光秀は9日未刻(午後)に上洛。兼見は「白川」まで出迎え、光秀は兼見宅に寄って禁裏などへの銀子進上を託した後、「小座敷」にしばらく逗留。そこで「方々」に「注進」を書き、それを兼見に「手遣(てつかい・配下の者をつかわすこと)」を依頼します。光秀自筆「覚条々」の日付「6月9日」は、まさにこの時の1通にほかなりません。そして光秀は、親しき連歌師(紹巴・昌叱・心前)たちと夕食を共にして、下鳥羽の陣所へと向かいました(別本『兼見卿記』)。 藤孝と兼見、兼見と光秀の関係を踏まえれば、この記述の信憑性は容易に理解できるでしょう。

 「注進」の3ヵ条は、「御父子(藤孝・忠興)が、元結を切ったのは(信長に弔意を表した)やむを得ないことです。いったんは私も腹がたちましたが、考えれば考えるほどこのようにあるべき(主君に忠節を尽くすこと)だと思います。しかしこうなった以上は、丹後から出陣していただき、私に味方していただくよう望んでいます」から始まります。この「本能寺の変」が、藤孝があずかり知らない「不慮(思いがけないこと)」だったのは、この条で吐露した光秀の文言により明白です。

◆天正10年・秀吉「信長不慮について、比類なき御覚悟を持ち、頼もしく存じ候」

 藤孝は、7月6日に美濃より上洛。そして10日に秀吉も上洛し、翌日は本圀寺に滞在する秀吉を、洛中洛外の諸家が「鼓騒(こそう・さわぎたてる)」して訪問。兼見は広間において、伏見殿(邦房親王)の次に対面しています(別本『兼見卿記』)。 

 この時(天正10年7月11日)、秀吉は「長岡兵部大輔(藤孝)・長岡与一郎(忠興)」に宛て、3ヵ条の起請文を出しました。牛王宝印の裏面に、神文と血判花押があり、「このたびの信長の不慮(本能寺の変)について比類ないお覚悟(忠節)をもち、たのもしく思います」という文言から始まります。藤孝改め幽斎と秀吉は、永禄11年(1568)以来、足利義昭を擁した信長のもとで共に戦ってきた仲。「主君への忠節」という点で、信頼関係を確かめ合うことができたのではないでしょうか。

 天正15年3月1日、秀吉は大軍を擁し、大坂から九州へ向け出陣。秀吉はその途中、鞆浦の義昭のもとへ立ち寄ります。幽斎は、「息子の忠興と隠興元が参陣しているので、入道となった私が供奉することもないが、みんなが戦っているのにのんびりと留まっていることも恐れ多い気がして」と、4月21日に丹後田辺から船で出発。そして九州平定に目途がたった6月8日ごろ、秀吉と合流して筥崎付近で「公儀(義昭)」の御成りを迎えます。帰航の途中(7月15日)には、備後津之郷の「公儀御座所」へ参上し、義昭に京へ帰るように促したようです(百瀬ちどり「豊臣秀吉と長岡幽斎-九州道の記-」)。この後10月に義昭は京都へ還り、翌天正16年1月13日、朝廷に将軍職を返上しました。ここで幽斎と秀吉は、「元亀騒乱」・「本能寺の変」以来の「主君への忠節」を尽くし、「天下再興」を果たせたといえるでしょう。

◆◆慶長5年・幽斎「信長御代・太閤様御時、似合いの忠節を致し候」

 慶長5年7月、徳川方と大阪方の対立が激しくなるなか、幽斎は丹後田辺城で籠城していました。27日、八条宮智仁親王は、徳善院(前田玄以)と家従大石甚助を遣わして開城を勧めます。これに対して幽斎は、東條紀伊守行長(徳川家康と公家・大名との調整役)らへの書状で、「世の中の動きはどうなるかわかりません。いまさら申し上げることもありませんが、信長御代、太閤様御時、似合いの忠節を致し、近年御懇ろにしていただいている秀頼様に、何をもって疎略にすることがあるでしょうか」と心情を吐露しています。死を覚悟しての言葉に、偽りはないでしょう。

 いつの世であっても自分の信念(行動規範)を貫くことは難しく、ましてや「昨日の友は今日の敵」という戦国乱世です。藤孝ー幽斎は時代の荒波を、「たけきもののふ(猛き武士)の心をも慰める」(「古今和歌集」序)という和歌を支えとし、「似合いの忠節(自分にふさわしい主君への忠節)」を全うしたのです。

 今回の細川家文書大公開は、信長・光秀・秀吉との深い関係をとおし、改めて藤孝-幽斎が生きた時代と、その人物像を改めて考える機会となりました。

 -参考文献-

・(公財)永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター編『織田信長文書の世界 永青文庫珠玉の60通』 勉誠社 2024年



【参考】