◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(30) 2024.10.27
◆向き合う遺影
細川家(永青文庫)と南禅寺・天授庵に、幽斎と妻・麝香の肖像画が伝わっています。
幽斎は慶長15年(1610)8月20日、三条車屋町の屋敷で、77年にわたる波乱万丈の生涯を終えました。肖像画は、3回忌にあたる慶長17年に、麝香の求めによって忠興がつくったものです。くつろいで虚空をながめる姿は、柿本人麻呂像をはじめとした歌人肖像画の型を踏襲。さらに連歌師の飯尾宗祇や牡丹花肖柏の「団扇」を握る姿や、歌仙絵の波模様畳縁を反映。まさに戦国の世を戦い、晩年を歌人として生き抜いた幽斎の本望と「人となり」が伝わってきます。
麝香(1544-1618)は、若狭熊川城主で足利義晴の近習であった沼田光兼の娘(幽斎より10歳年下)。それ以上のことはわかりませんが、永禄6年(1563)に忠興が生まれています。幽斎(藤孝)が、足利義輝の近衆として朽木より上洛し、京に滞在していたころに婚姻が行われたのでしょうか。勝龍寺城時代には兄の沼田統兼(弥七郎・一之斎)が、本丸に隣接する郭に屋敷を構えていたようです(『兼見卿記』天正3年12月18日条)。
慶長15年、麝香は三条車屋町で幽斎を看取ったあと江戸に移り、元和4年(1618)8月18日に亡くなります。当時小倉城にいた忠興は麝香の危篤を知り、4月13日に江戸へ向かいますが、大風や自らの眼病の悪化で到着が遅れ、臨終には間に合いませんでした。忠興は麝香没の知らせをうけ、すぐさま忠利(後の三代藩主)に「おかをかゝせ給候」と命じています。これが細川家に伝わる麝香の肖像で、遺影であるにもかかわらず、幽斎と向き合うような寿像(生前につくっておく肖像)のかたち。上畳の体裁なども含めて、幽斎像と対にしていることは明らかで、忠興や細川家中の思いが伝わってきます。ややふっくらとした細川家の面相にくらべ、天授庵伝来の麝香は少し異なる印象をうけますが、やはり幽斎と向き合って祀るように意識されています。
◆妻への手紙で吐露する幽斎の本音
天正16年~19年ころと推定されている、幽斎から麝香へあてた書状があります(『藤孝事記』収載の写し。麝香の侍女・おいまを経由した手紙で、丹後にいる麝香の上洛をうながす内容)。
幽斎はそのなかで「くわん白様一昨日くたり候て、京に御さ候うちも、日に日にめしそうろうて・・・(秀吉様がおととい下国した。京におられる内は、毎日のようにお召しがあり、丹後へ帰ることもできないので困った)」、「しかしながら我々御そはにゐ候へは、何事も何事もすみ申事にて候、としよりはあなつり候とも、国のためにはようにたち候とそんし候」(しかし我々は関白のお側にいるからこそ安泰で、年寄だとばかにされても、国のためには役立つと思っている)、「まへにおやこの事あしさまに申したるしゅも一たんと色をかへてちそうかほにて候、おかしく候(前は私と忠興親子のことを悪く言っていた衆も、すっかり態度をかえてちやほやするようになり、おもしろい)」と吐露。幽斎の秀吉近侍への姿勢や、当初は悪口を言われながらも、その立場が他からも認められるようになったことが、生々しく述べられています。
そして文末には、「20日ごろの上洛と聞いて待っている。気をつけて・・・。勝龍寺経由で来て、そこから荷物を届けなさい」とあり、妻の上洛を楽しみに、細かな配慮をしています。
◆夫婦相伴の奔走と団欒
『兼見卿記』は吉田神社神主を勤めた吉田兼見(兼和)の日記で、近年、元亀元年(1570)~慶長15年(1610)にわたる新訂増補版・全7巻が出版され(遠藤珠紀・金子拓翻刻、史料纂集・八木書店)、通読できるようになりました。兼見と幽斎はいとこ同士で、しかも生涯を通した無二の親友。そこには幽斎の詳しい動向と共に、家族ぐるみの交流が生き生きと記されています。その中から、幽斎と麝香の関係や麝香の人柄がうかがえる、いくつかの記事を紹介しましょう。
天正11年(1583)3月28日、兼見の息子・兼治と、幽斎の娘・伊也の祝言が行われました。伊也は丹後で一色義定に嫁ぎましたが、本能寺の変による混乱のなか、一色氏は細川家に謀殺されています。吉田家への伊也の婚礼はこのような経過を踏まえたもので、幽斎の細かな配慮から、娘を案じる親心が伝わってきます。
天正14年2月23日、幽斎と丹後から上京した麝香は、そろって吉田を訪れ、兼見や兼治宅で歓待を受けます。麝香は清水寺へ参詣しますが、幽斎は秀吉のお召し(聚楽第縄打ち)により退座。麝香はしばらく京に滞在し、何度も兼見に書状を遣わし礼を尽くしています。このころ忠興は聚楽第普請に駆り出され、石を引く「修羅車」の木を兼見に所望することも。麝香は3月27日に愛宕山へ登り、丹後へ下国しました。
天正14年10月、今度は幽斎が「ぜひとも同行を」と誘って、兼見は丹後へ赴きます。田辺や宮津では、麝香や細川家中から大歓待。兼見は、天の橋立見物や籠神社参詣なども楽しみました。
天正15年7月8日、麝香は病気の子・蓮丸(当時12歳か)を連れて上洛。半井驢庵の治療を受けさせるためで、このとき幽斎は九州への旅の途中でした。兼見は見舞いや病気平癒祈願などで援助しますが、17日に蓮丸は死去。幽斎が上洛したのは7月25日のことでした。幽斎はこのころ、聚楽あたりに屋敷を持っていたようです。11月22日、麝香はこの屋敷にあった鎮守が破損したので、吉田に遷宮するよう兼見に依頼しています。
しかし、このような京屋敷での平穏は長くは続きません(文禄2年には伏見にも屋敷普請)。文禄4年(1595)7月の秀次切腹事件により、幽斎の聚楽屋敷も取り払われたようで、幽斎は吉田に「随神庵」という庵をもち、ここに滞在することが多くなります(文禄5年3月17日条)。慶長元年12月8日、幽斎と麝香は晩飡に吉田へ招かれますが、この時麝香は南禅寺に滞在していました(慶長元年12月7日条)。
そして慶長5年(1600)、忠興は関ヶ原の戦場へ、幽斎と麝香は田辺城での籠城。家族の誰もが、言うに言われぬ試練を経て、忠興は豊前へ国替え。麝香は、慶長7年9月2日、京三条の松井友閑の屋敷を買い取り、ここが二人の「終の棲家」となりました。この時幽斎69歳、麝香59歳。老体ながらも二人は度々豊前の忠興のもとを訪れ、細川家の一員としての面目を全うしています。
慶長15年3月6日、麝香は兼見に依頼して豊国社へ参詣。4月17日にも社参し、吉田に寄って大勢と夕飡。このころには幽斎の容態も悪くなっていたので、単独行動です。幽斎が三条車屋町の屋敷で息を引き取ったのは、この年8月20日のことでした。
-参考文献-
・市野千鶴子「細川忠興の和歌ー『細川忠興江戸紀行和歌』『細川忠興点取和歌』その他を紹介してその成立に及ぶ-」『書陵部紀要』第37号 1986年
・『細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション』 東京・京都・九州国立博物館展示図録 2010年
・井手麻衣子「細川文書『藤孝事記』について」 『古文書研究』第75号 2013年
得法寺・沼田氏の供養塔
熊川城入口
鯖街道・熊川宿
南禅寺天授庵 本堂は、慶長7年に幽斎が再建。