◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(27) 2024.06.25
◆高橋さん・能勢さん・中小路さん
京都のお膝元・西岡地域には、天皇家・公家や有力寺社の荘園が錯綜し、早くから村の自治に長けた「惣村」や、それらの連合が発達していました。そのなかから、荘園村落に基盤を持つ有力農民はしだいに武士となり、時の武家権力の被官人として参戦し、混迷の戦国時代を生き抜きます。
この中には、神足氏や革島氏のように、足利尊氏の時代から活躍する生え抜きや、応仁の乱のなかで各地から集まり、この地に根をおろすものなど来歴はさまざまですが、今でも彼らの子孫たちがその苗字を名乗り、戦国時代の記憶を受け継いでいるのです。
たとえば奥海印寺の高橋勘解由左衛門尉俊長は、室町幕府管領の細川勝元・政元の被官人として史料に登場する武士です。46歳の時、俊長は文明15年(1483)10月、氏子たちから奉加を集めて海印寺寂照院の妙見宮(走田神社)を修復(高橋伸和家文書・佐藤年秀家文書)。小字「城」と周辺に住んでいた特定の家筋・高橋さん一族が、走田神社の祭礼で弓講(年頭の奉射行事)を奉仕されているのは、その伝統でしょうか。高橋家と寂照院との関わりは深く、俊長の子孫・杲雄(1486-1559)は海印寺の僧侶を勤めており、一族の墓所も付近にありました。現在フランス国立ギメ美術館に所蔵されている「太政威徳天(天神)縁起」は、天文7年(1538)に開田の中小路山城守宗綱が主導して制作したもので、海印寺の杲雄はそれに右筆として関わり、今里の能勢頼直も俗弟子として参加しています。彼らは、今でも地元に住んでおられる高橋さん、能勢さん、中小路さんのご先祖一族です。
◆細川藤孝・忠興家の家来となった志水さん・神足さん・中路さん
西岡地域の「土豪」・「地侍」については、古くから研究が積み重ねられており、細川家には「青龍寺(勝龍寺)・丹後・豊前以来面々の名附」といった細川家中の系譜書・先祖付や侍帳が系統的に残っていますので、細川藤孝・忠興の家来となって丹後、豊前と渡り、熊本藩の武士として生き抜いた事例も、いくつか紹介されてきました。
志水清久(雅樂助・伯耆入道・宗加)は始め六角氏のもとで武功を上げ、やがて足利義昭・織田信長に属し、義昭失脚後は藤孝のもとで頭角を現しました。丹後では1000石取りの重臣となり、子孫が豊前・肥後で細川家に仕えています。ご子孫に戦国~近世の古文書・記録が伝来しており、細川家の史料と突き合わせて読める点で貴重な事例です。
神足氏は南北朝期からの活動が知られ、戦国期には乙訓惣国の年寄衆としての実力をふるったサムライです。特にその在所や城が勝龍寺城に近接することから、つねに権力者の複雑な抗争に巻き込まれ、一族は試練・挫折の繰り返しに晒されてきました。神足掃部は足利義輝に仕えた後、浪人となり在所に居住していましたが、細川藤孝・忠興が勝龍寺城に入るとこれに仕え、在所は城の大改修により北の守り手として組み込まれす。元亀4年(1573)の義昭討伐のさいには城の警固にあたり、その働きを忠興から賞されました。掃部は、細川家の丹後移封には高齢と「在所相続」のため同行を辞退しましたが、忠興から次男三郎右衛門・三男少(庄)五郎・四男八郎右衛門の子息3名が召し出されます。そして掃部の死去後、次男は在所相続のため帰郷しますが、細川家の参勤交代の節にはお目見えに参上するなど、熊本・西岡の双方で細川家との縁は続きました。
中路氏は、葛野郡・郡(こおり)や乙訓郡・下桂に土着した複数の家筋からなる一族です。初代・次郎左衛門は三好長慶の重臣松永久秀らに仕え、久秀滅亡後は藤孝・忠興に仕官します。豊臣秀吉の小田原攻めや朝鮮出兵、その後の関ヶ原合戦にも出陣し、特に忠興から武勇と人柄が認められたようで、豊前で御者頭役(足軽大将)となって2000石を知行するほどに出世します。次郎左衛門の家系は熊本藩士として幕末まで続いたほか、一族の数家は下桂村や郡村で庄屋として村政運営にあたりました。
◆物集女氏の最期と物集女城
「土豪」・「地侍」たちは、応仁の乱以後の政治混乱の中で、細川高国・晴元や三好長慶など、時の権力者の被官人となり集団を組み、敵・味方しじゅう入れ替わる混沌とした動きの渦中にありました。そして、いよいよ織田信長が京都に入り、そのもとで支配を強める細川藤孝に対し、西岡のサムライたちは服従するかどうかの選択を迫られます。天正3年(1575)9月、藤孝に敵対した物集女宗入(疎入・縫殿助・忠重)は勝龍寺城下において謀殺され、藤孝に同心した中路鍋千代(物集女氏の外孫、後次郎左衛門)は跡職相続を認められたという事件は、まさにこのことを象徴する出来事です(『綿考輯録』・『松井家先祖由来附』・『米田家伝録』)。
物集女氏謀殺の理由は「異議を述べて召しに応ぜず」(『綿考輯録』)、つまり「反抗して、勝龍寺城に来いいっても来ない」からですが、「異議」とはどういうことなのか、当時の史料から2点をあげて、具体的に考えてみましょう。
1点目は、物集女城が、丹波衆や西岡牢人の動きに絡む要所であったことです。もともと丹波は足利幕府の被官人が多くいる地域で、元亀元年頃には信長・藤孝に敗れた「西岡之牢人(浪人)共」はここに集結していました。これを調略するよう命じられた藤孝は、牢人共の動きを抑えるために「物集女城」を破却すべきであるとの意見と、きっぱりとした「上意(将軍の命令)」を出すように側近(曽我兵庫守助乗)に伝えています(松井家文書「細川藤孝書状写」)。天正3年8月は、明智光秀・羽柴秀吉・長岡藤孝ら、信長家臣団挙げての加賀一向一揆攻めで、信長は一段落した9月には光秀に丹波攻めを命じ、藤孝には丹波国桑田郡・船井郡(山城国との国境付近)を与えました(池田本「信長公記」)。いよいよ丹波攻めへと突き進む信長と藤孝にとって、物集女氏討伐は懸案事項として避けては通れない成り行きだったのです。信長は、藤孝が物集女氏を「曲者」として討ち取ったことに対して「然るべき候(当然のことだ)」と書き送っています(天正3年10月4日「織田信長黒印状」・米田家文書)
2点目は、天龍寺領物集女庄との関わりです。平安時代の末期に立荘された物集女庄は、鎌倉時代には九条道家に寄進され、さらに後鳥羽上皇の菩提を弔うため法華山寺(峯堂)へ。そして室町時代になると、足利尊氏によって後醍醐天皇の菩提を弔うために創建された天龍寺の所領となります。物集女庄の中心には後鳥羽上皇を祀る御影堂と坊舎からなる崇恩寺があり、この北東に隣接して物集女城は築かれていたのです。
物集女氏の活動がわかるのは応仁の乱以後のことで、いくつかの家筋からなる一族が、時には細川氏、時には三好氏の被官人となり、複雑ながらも有力土豪として実力をつけていました。そして、物集女氏は天龍寺領物集女荘の代官であるという立場でもありました。しかし寺納すべき公用米の未進など天龍寺側とのトラブルがあり、天文24年(1555)には三好長慶から年貢の催促をうけています(天龍寺文書)。
信長は、天龍寺塔頭妙智院の策彦周良(さくげんしゅうりょう)と深い親交がありました。『匠明』(桃山時代の建築書)によれば、信長が永禄10年(1567)から築いた美濃稲葉山の城を「岐阜」と名付けたのは策彦で、また天正元年(1573)には山城国西院の妙智院領の直納を認めています(妙智院文書「織田信長黒印状」「武井夕庵・木下秀吉連署状」「村井貞勝・明智光秀連署状」)。また細川藤孝は和漢連句などを通して策彦と親交深く、藤孝が家中をあげて興行した元亀2年の大原野千句『連歌記』の執筆を策彦に依頼しました。
天龍寺と信長・藤孝の昵懇は、元亀4年(1573)年4月の「錯乱につき方々調え入り目帳」(天龍寺文書)を見れば、さらによくわかるのです。信長の「上京焼き討ち」の当日から書き始められたこの帳面は、妙智院ほか天龍寺各塔頭から信長・光秀・藤孝、そして「勝龍寺(城)」などへ渡された礼銭をくわしく書き上げたもので、信長方にすれば、反抗する天龍寺代官物集女氏の排除は、当然の措置だったといえるでしょう。なお年代は確定できませんが、藤孝は後鳥羽院の忌日2月22日に、物集女崇恩寺で連歌を興行しています。
今年は、天正3年に物集女氏が滅ぼされてから450年。昨日・6月24日付けで、文化審議会から「物集女城跡」を国の史跡に指定するよう、文部科学省に答申がありました。織田信長・細川藤孝と物集女氏の関係、勝龍寺城と物集女城の対比などを通して、改めて西岡・乙訓の戦国時代とその遺跡を深く知り、これからの保存・活用の弾みとなることを期待しています。
-主要参考文献-
・仁木宏「松井家文書三題-元亀年間の山城西岡と細川藤孝-」 大阪市立大学文学部紀要 1996年
・『戦国時代の物集女と乙訓・西岡』 向日市文化資料館 2020年
・野田泰三「洛西地域の土豪の中近世-中路氏を素材として」『京都を学ぶ【洛西編】』 京都学研究会 ナカニシヤ出版 2020年
・野田泰三「神足氏と細川氏」 同上
走田神社御神木
走田神社勘定縄
走田神社オセンドお供えのおにぎり
開田城跡土塁公園
開田城跡土塁公園
開田城復元模型(マンションエントランス)
物集女城跡東堀
物集女城跡東土塁
物集女城跡全体図(公園説明板)