三思一言 勝龍寺城れきし余話(24) 2024.02.07

イメージ・細川藤孝の勝龍寺城

◆勝龍寺城の大普請と「錯乱」

 平安時代創建の寺伝をもつ勝龍寺の地は、京都と大坂を結ぶ要害にあり、戦乱のさいには敵・味方入り乱れて争奪戦を繰り広げ、入れ替わり立ち替わり、時の権力者が陣地としました。応仁の乱には西軍・畠山義就方の拠点となり、その後は三好慶長方が占拠して、その都度いくばくかの普請が加えられたようです。そして元亀2年(1571)10月、畿内制圧をめざす織田信長もまた、門並み人夫の挑発を認めて、細川藤孝に勝龍寺城の大普請を命じました。

 「就錯乱方々調入目帳(さくらんにつき、ほうぼうととのえいりめちょう)」(天龍寺塔頭臨川寺文書)には、このころの細川藤孝と勝龍寺城の動きが生々しく記されています。この冊子は、天龍寺塔頭が信長方の有力武将や、公方(足利義昭)方へ支払った礼銭などの明細帳です。書き始められた4月2日・3日は、都の人々を戦慄させた「上京焼き討ち」の当日。たとえば4月3日は真乗院・三秀院から「細兵(細川藤孝)・明十兵(明智光秀)」へ銀子2枚、5日は妙智院より信長へ1貫500文、5日・11日には真乗院から「公方様(義昭)・内備(内藤備前守)・柴修(柴田勝家)・夕庵(武井)」へ1貫125文と、戦火から免れるために寺僧らが奔走しているようすがわかります。天龍寺はこれにより柴田勝家から「陣執(じんとり)・放火」を禁止する制札を得たのです(4月5日)。くわしく読めば、当時の状況がリアルに理解できて興味深いのですが、ここでは天龍寺が「細兵・明十兵」を信長方の有力家臣としてセットで認識していること、礼銭の渡し先として「勝龍寺(城)」が度々登場することに注目しておきましょう(4月12日、5月5日、7月5日)。

 ◆イメージ作成のヒント

 いうまでもなく藤孝は、元室町幕府の奉公衆、足利義輝・義昭の家臣でした。永禄11年に信長・義昭の連合軍が京都へ攻め入り、しばらくは二人の協調路線が保たれます。このなかで藤孝は、大坂・西国方面への前線基地・勝龍寺へ滞在し、武将としての頭角を現すようになります。

 しかしやがて信長と義昭の対立が激化すると、藤孝は微妙な立場におかれるようになります。信長から命じられたこの勝龍寺城が、岐路にたつ藤孝の選択と決断の支えとなり、信長腹心の武将としての飛躍を象徴するものになったといってよいでしょう。

 それでは勝龍寺城は、どのような城だったのか、いくつかの方法で探っていきましょう。

  【古地図・古写真から】イメージの基本は、大正11年(1922)測図の3000分の1「都市計画基本図」と、昭和49年発行の2500分の1「京都市都市計画図」、昭和34年撮影の1万分の1「長岡町空中写真」です。これらを見比べると、小畑川右岸の段丘上に壕で囲まれた方形の本丸、その周りの複数の郭、北側の大規模な土塁が連なり、神足と勝竜寺一帯に広がる総構えの存在が読み取れます。城全体と河川・古道、寺院・旧集落との関係を知る上でも、これらの熟覧が不可欠なのです。また江戸時代中期の「神足村微細絵図」(長谷川太一家文書)は、「神足」エリア北側の大規模な土塁の名残りが描かれ、西国街道からの入り口に「ダシ」(出し=出城)の小字名が確認できるなどとても興味深く、興味がつきません。

  【古文書・古記録から】「勝龍寺」・「勝龍寺城」の歴史的性格を知るための文献史料は豊富です。具体的に構造がわかるキーワードは、なんといっても「天主」。その存在が明確な史料の1点目は、のちの「幽斎」(藤孝の法名)が八条宮智仁親王への古今伝授にさいし、自分が天正2年に三条西実澄から受けた古今伝授の座敷を「殿主上壇(てんしゅ=天主の上段の間)」と直接伝えていることです(「古今伝授座敷模様」宮内庁書陵部)。そして2点目は「上京焼き討ち」から2カ月後の6月、藤孝と里村紹巴が「天主」で両吟連歌を行っていることで、天主の趣向をさらに示唆しています(「里村紹巴書状」橋本家文書)。

 また、公私共に生涯を通じて深く親交を結んだ吉田兼見の日記には、藤孝の動向や勝龍寺城訪問のさいのようすがくわしく記され、同時代史料としてたいへん貴重な内容です。たとえば、天正3年(1575)12月18日、兼見はかねてからの約束で勝龍寺を訪れ、「沼田弥七郎」のところで藤孝と面会し、その日は宿泊します。「弥七郎」は沼田統兼で(藤孝の妻・麝香の兄)、腹心として藤孝の軍事・経営や一族の結束を支えました。この記事は、勝龍寺城の一角に沼田屋敷があったことを証明する、貴重な一文です。

 また天正6年10月8日、藤孝は洛外吉田社の兼見を訪ね、「来る10日に囲碁を興行するので、ぜひ来て」と誘います。そして10日、兼見は約束どおり勝龍寺へ向かうと、藤孝が「門外」まで出迎え、「宅」へ同道。その日の夜は他の友人らと囲碁や「乱舞(宴会)」に興じ宿泊。翌日は、「朝飡(ちょうさん=朝食)」を沼田弥七郎のところで藤孝と相伴します。その後兼見は「新小院」で友人2人と囲碁。それが終わると藤孝が「門外」へ迎えにきて「宅」まで招きますが、兼見はこれを辞退してこの日は上洛の途につきました。つまり勝龍寺には、門を構えた藤孝の「宅(邸宅)」や、「新小院」とよばれる建物があったのです。

 建物の名前としてもう一つ、忠興の「新造之御殿」が注目しておきましょう。天正4年12月11日、ここで藤孝興行の連歌会が行われています。発句は里村紹巴の「鴛(おし)の声」、連衆は藤孝・紹巴のほかに里村昌叱・飯川秋共・蘆中心前・宗久・喜悦・米田求政・重種の面々でした。

 【発掘調査から】勝龍寺城の本丸部分を都市公園として保存するため、昭和63年5月から平成元年3月まで、本格的な発掘調査が行われました。その結果、勝龍寺城が石垣を築き、瓦を葺いた礎石建物があるという信長配下の城の特徴が、はっきりと証明されたのです。主な遺構は、天主の石垣、本丸南側の石垣、東辺土塁の石垣・井戸・礎石列、北東隅櫓の石垣・階段、枡形虎口の構造をもつ北門の石垣、本丸内の井戸や堀・暗渠、西辺土塁の通路、通称沼田丸の帯曲輪。遺物は瓦や陶磁器・木製品などが大量に出土しています。さらに神足神社に接する外郭土塁の発掘(現神足公園)では、横矢掛けの大規模な土塁と空壕の構造が明らかになりました。

 ◆イメージ描画のポイント

【河川・濠と古道】東を小畑川、西を犬川に挟まれた舌状の段丘突端にあり、北から「神足」エリア→本丸エリア→南の「勝龍寺」エリアと、3つの区画が一体となって形成されていたことが第1点目です。細かく見れば(『長岡京市史』の地形分類図・地質図)、もともと「神足」エリアと「勝龍寺」エリアの間は谷筋で、水脈がありました。ここを大規模に整地し、様々な土木技術を駆使して石垣と濠で囲む「本丸」エリアを造り上げたのだという認識がまず要となります。第2点目は、東に西国街道、西に久我縄手という古くからの交通の要衝にあり、それに対してどのように門や隅櫓を配置したのかを意識して、イメージをスケッチしました。

【総構え】「神足」エリアの北側には、二重の土塁と空堀で囲まれた強固な防御施設。その中央部分には「横矢掛け」の一段高い土塁があり、空堀の土橋から侵入する敵を狙います。西国街道と久我縄手との出入り口は、櫓門のような施設で固めていたことでしょう。

 「本丸」エリアは、まず壕と石垣で囲まれた本丸を中心に、複数の郭が集まって形成されていたのだという理解が大切です。犬川と「本丸」エリアの間には沼田氏の屋敷があり、南には徴収した城米や軍需物資を蓄える倉庫的な機能の郭も隣接していたのでしょう。本丸の北は、米田氏・松井氏など重臣の地元の武士たちが屋敷を構え、神足口には神足氏が、勝龍寺口には築山氏が駐留し、久我縄手からの守りを固めていたと思われます。出陣に備えた兵が駐屯する空間の存在もイメージしました。

「勝龍寺」エリアの小畑川・犬川合流地点は、天然の外堀。勝龍寺には幾つかの坊舎があり、古くはここが城の中枢機能をはたしていた所です。

【本丸】四方を水壕で囲まれた方形で、石垣構造の土塁が囲みます(部分的に造りに差異。桟敷付随箇所もある)。南西には天主が張り出し、西北の桝形虎口の門が大手門の機能をもっていたのでしょう。ここの隅櫓は西国街道、東北の隅櫓は久我縄手へ睨みを効かせるものです。

 天主につながる西側土塁はひときわ規模が大きく、沼田氏屋敷との間は帯曲輪で強靭な守り。この土塁の中央に沼田氏屋敷へつながる通路をひらきます。「本丸」の内部西寄りには、排水のための素掘りの堀や暗渠が南濠に開き、東側でいくつかの建物跡や複数の井戸がみつかっているので、やはりここに軍議や寄合を行う城の中枢があったのだと考えています。

◆イメージ理解へのチャレンジ

 「藤孝とその家族らはどこに住んでいたのか」、これをイメージすることが最大の難問です。本丸の内部からは建物跡や大量の遺物がみつかりましたが、考古学的には藤孝の居住空間とはみなされていません。そうであるならば、この図では天主の向かい側、「勝龍寺」エリアに想定しておきましょう。寺院が占拠されて軍事施設となり、それが発展して城が形成されていくというパターンはよくあることで、勝龍寺城もその典型的な事例の一つです。

 「勝龍寺」エリアと「神足」エリアを結んで、信長配下の先進的な「本丸」エリアを築き、「錯乱」の戦国を生き抜いていく細川藤孝。元亀4年7月、信長が足利義昭を滅ぼした宇治牧島の戦いには、勝龍寺城から出陣した藤孝と与一郎(忠興)の姿があったのです(池田本「信長公記」)。

-参考文献-

・「勝龍寺城鳥観図」『歴史群像』2011年12月号 ㈱学研パブリッシング

・原田正俊編『天龍寺文書の研究』 思文閣出版 2011年

・『勝龍寺城関係資料集』 長岡京市教育委員会 2020年

・三浦正幸『天守』 吉川弘文館 2022年

・竹井英文・中沢克昭・新谷和之『描かれた中世城郭』 吉川弘文館 2023年