2020年4月 連載スタート‼
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キリシマツツジの勝竜寺城公園
目次
⑴『勝龍寺城は語る』ーれきし余話へのお誘いー 2020.04.11
◆寺院と城郭 ◆勝竜寺城公園と神足公園 ◆研究史を紐解く
⑵ 中山修一の勝龍寺城研究 2020.04.25
◆勝龍寺城を守ろう ◆伝承の勝龍寺城 ◆小畑川の流路変更ーホウサイ川ー
⑶ 勝龍寺城天主と「古今伝授座敷模様」 2020.05.17
◆八条宮智仁親王筆の「古今伝授座敷模様」 ◆「座敷模様」のイメージ ◆勝龍寺城天主の新資料発見
⑷ 長岡藤孝と三条西実枝 2020.06.13
◆混迷の政局-流浪と寄合- ◆信長入京-京での出会い- ◆誓状と証明状-転機を克服-
⑸ 細川幽斎と八条宮智仁親王 2020.07.19
◆幽斎と智仁親王-出会い- ◆中断された古今伝授 ◆その後の親しき日々 ◆「八条殿茶屋」と「長岡大明神」
⑹ 『兼見卿記』を読む -吉田兼見と細川幽斎- 2020.08.30
◆新訂増補『兼見卿記』 ◆家族ぐるみの親しき日々 ◆気脈通じる学問の友 ◆八条宮智仁親王と兼見&幽斎
⑺ 細川幽斎の在京料 -丹後と京- 2020.09.23
◆天橋立に遊ぶ ◆幽斎の在京料3000石 ◆吉田兼見の丹後下向
⑻ 『舜旧記』を読む -豊国社領となった西岡の村々 - 2020.10.20
◆梵舜の日記『舜旧記』 ◆梵舜の豊国社領支配 ◆幽斎一家との親しい関係
⑼「玄旨公御連歌」を読む-幽斎と紹巴- 2020.12.02
◆「玄旨公御連歌」とは? ◆年次からみる幽斎の行動 ◆「乙訓」に関わる連歌興行 ◆藤孝-紹巴-光秀
⑽再読「古今伝受座敷模様」-勝龍寺城「殿主上壇」考- 2020.12.11
◆キーマンは八条宮智仁親王 ◆もう一つの「講釈次第」 ◆藤孝・光秀・信長の城と天主座敷
⑾ 長岡藤孝と明智光秀 -戦と連歌の日々- 2021.01.07
◆信長にとっての藤孝・光秀 ◆光秀にとっての藤孝
⑿ その昔、長岡というところにて -伊勢物語闕疑抄- 2021.01.18
◆「伊勢物語闕疑抄」とは ◆きっかけは八条宮智仁親王への講釈
⒀ 細川ガラシャ -謎のキリシタンベル- 2021.01.20
◆明智光秀の娘「たま」 ◆二つの「九曜紋鐘」
⒁ 文化の天下人・細川幽斎人脈図 2021.02.12
◆流浪の中の学問 ◆里村紹巴・吉田兼見 ◆八条宮智仁親王 ◆中院通勝・烏丸光広 ◆前田玄以・佐方宗佐 ◆松永貞徳 ◆人脈図作成の意図
⒂勝龍寺城天主と開田御茶屋 2021.08.03
-長岡京市ふるさとガイドの会歴史講演会記録-
◆古今伝授の舞台へ ◆幽斎没後400年記念事業から400年 ◆幽斎直伝の「古今伝授座敷模様」 ◆八条宮学問所から開田御茶屋を経て「古今伝授の間」へ ◆文化の天下人・細川幽斎
⒃深読み「大原野千句連歌記」-兵馬の鞍上にありても- 2021.10.13
◆『大原野千句』懐紙と「連歌記」 ◆天龍寺妙智院策彦と紹巴
◆兵馬の鞍上にありても亦た口に吟を絶えず ◆「千句」の連衆
⒄勝龍寺梵鐘秘話-応仁文明の乱に鳴り響く- 2021.11.22
◆山城国乙訓郡神足郷勝龍寺 ◆16世紀初め頃の勝龍寺
⒅中世の縮図 -山城国乙訓郡小塩庄- 2022.01.27
◆小塩山の麓に広がる、乙訓最大の荘園 ◆小塩庄最後の代官・長岡藤孝
⒆神足氏と神足城総構 -小塩庄下司・神足友春- 2022.03.10
◆乙訓惣国と神足友春 ◆薬師寺与一(元一)の乱と神足友春の最期 ◆小塩庄神足抱分の行方と「神足城惣構図」
⒆附録 早わかり「乙訓郡条里坪付図」と神足城 2022.05.12
◆小塩庄神足氏拘分3ヵ郷 ◆「字(あざな)」で比定する神足城
⒇九条政基「小塩庄下向引付」を読む -永正2年の神足城事件- 2022.07.30
◆東山毘沙門谷の光明峯寺 ◆九条政基の下向に同行した面々 ◆「引付」は如何に書かれたのか ◆「ふるきあと小塩の山の夜嵐に」-神足城の政基と水垂村被官人殺傷事件- ◆神足・古市・勝竜寺 -浮かび上がる戦国の寺×城×村のイメージ
(21)混迷の三好氏小塩庄御警固 -「随心院文書」を読む- 2022.09.15
◆小塩庄と随心院 ◆三好長慶の勝龍寺普請と随心院代官四手井氏 ◆和久是徳と三好三人衆の小塩庄関与
(22)室町幕府奉公衆・細川藤孝 -兄は三淵藤英- 2022.10.31
◆若き日の藤孝-足利将軍と流浪- ◆藤孝、『信長』に就いて大名に転身
◆藤孝と兄・三淵藤英の死
(23)長岡藤孝と信長の「天下布武」 -細川家文書を読む- 2023.01.23
◆細川家に伝わる織田信長発給文書 ◆「信長文書」と『信長記』 ◆信長と家臣長岡藤孝
(24)イメージ・細川藤孝の勝龍寺城 2024.02.03
◆勝龍寺城の大普請と「錯乱」 ◆イメージ作成のヒント ◆イメージ描画のポイント
◆イメージ理解へのチャレンジ
(25)藤孝と市介の「無二の覚悟」-革島家文書を読むー 2024.04.17
◆革嶋家文書とは ◆織田信長と松井友閑の書状 ◆細川藤孝と革島市介の往復起請文
(26)細川家記『綿考輯録』を読む 2024.05.15
◆『綿考輯録』とは ◆「山城国西岡御領知之図」 ◆志水清久・革嶋市助と細川家
(27)「村のサムライ」たちの岐路とその後 2024.06.25
◆高橋さん・能勢さん・中小路さん ◆細川藤孝・忠興の家来となった志水さん・神足さん・中路さん
◆物集女氏の最期と物集女城
(28)中院通勝と細川幽斎 -永遠の源氏物語- 2024.07.15
◆通勝と幽斎の出会い ◆丹後蟄居の通勝と田辺城の幽斎 ◆「関ヶ原」の絶体絶命と八条宮サロン
(29)豊臣秀吉と長岡幽斎 -九州道の記- 2024.10.05
◆秀吉の起請文と妙喜庵での茶湯 ◆秀吉、幽斎へ3000石の知行 ◆「剣をばここへ納めよ筥崎の」 ◆「難波津の道に引かれて遥かなる」
(30)幽斎と麝香 -細川一族の命運を背負って- 2024.10.27
◆向き合う遺影 ◆妻への手紙で吐露する幽斎の本音 ◆夫婦相伴の奔走と団欒
(31)藤孝、似合いの忠節を致し候-細川家文書の大公開- 2024.11.10
◆信長の手紙-珠玉の60通大公開-
◆元亀3年・信長「南方あたりの衆誰々によらず、忠節をぬきんずべくにおいては召し出され、然るべくに候」
◆天正10年・光秀「思案そうろうほどかようにあるべきと存じ候」
◆天正10年・秀吉「信長不慮につき御覚悟を持ち、頼もしく存じ候」
◆◆慶長5年・幽斎「信長御代・太閤様御時、似合いの忠節を致し候」