◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⒆ 2019.03.30
◆生い立ち~簗川星嚴の門人~
宇田淵(栗園)は、文政10年(1827)、山城国乙訓郡神足村宇田利起の末子(6人目)として生まれました。宇田家は、西国街道沿いにある神足町の儒医で、実相院門跡の坊官として仕え、子弟は京都古義堂で学んで、乙訓の代表的な文化人を輩出した一族としてよく知られています。
父利起は、医学を海上隋鷗に、読書を伊藤東所(伊藤仁斎の孫)、国学を本居大平に学び、医業のかたわら漢籍・国書を楽しんでいました。そのような環境のなか、淵は医学を宗眞哉に習い、読書を嚴垣松苗に学んだと、自ら述べています。父や兄善嗣らの影響で10歳ごろから漢詩をつくり始め、そして京都にきた梁川星巌の門人となって、勤皇憂国の思想にのめり込むようになります(『名家採訪録』)。
◆勤皇の志士~岩倉具視との出会い~
淵は19歳、弘化の頃から向日町の東にある土川村で医業にあたります。そこでは草莽の志士を密にかくまうような生活を送り、安政5年(1858)に星巌が没した後、その門にいた者はみな幕府の探索をうけるようになったため、淵も動向を見張られていました。
淵が岩倉具視と出会ったのはこのような時で、半分は京都に出ていくという生活でした。岩倉が蟄居していた家で止宿を共にしたのは、山本鴻堂・山中献・香川敬三らの面々で、このときの師や友との出会いが、淵の一生に大きな影響を与えることになったのです。
王政復古の後、岩倉が政界に復帰し、いよいよ戊辰戦争となります。淵は、東山道総督に任じられた岩倉具視の子・具定(18歳)、副総督となった弟具経(当時16歳)の補佐として出陣し、参謀となって50日ほど滞留しました。後に淵は、錦の御旗を掲げて進軍する、その時の意気揚々とした気持ちを述懐しています。しかし江戸に戻ると病気が再発し、やむを得ず暇を乞い、京都に帰りました。淵は東山道出陣のとき、42歳となっていました(『名家採訪録』)。
◆桂宮家令を拝命~宮内省官吏として~
淵は京都に帰り、岩倉家に身を寄せて執事のようなことをしつつ、西岡で医業をしようと思っていました。しかし岩倉具視は、「これから御用に立たねばならん」と聞き入れてくれません。淵は具視の人柄について、「誰でも一見すると忽ち心照して、この方の為には力を尽くそうと思わぬものはいない」・「容貌・態度、威厳は余りあって眼光は人をいる」・「人をよく容れて、その人相応に長所を生かして使う」と尊敬の念を込めて語り、人情に篤く、憐憫の心も深く、昔の英雄豪傑のよいところをもっていたと評しています。
そのような岩倉具視の計らいのもと、淵は明治2年(1869)、朝廷に召しだされて「徴士権辨事」、ついで「辨事」となり、明治天皇東京行幸に伴っておかれた「留守官」に任じられます。それも廃止になったので、これから暇を楽しもうと思っていた矢先、中一日をおいて「桂宮家令」を仰せつけられました。ここから、淵の険しい後半生が始まるのです(『名家採訪録』)。
明治3年12月22日、留守官が宮内省に合併し、桂宮家の家事向き一切が宮内省の管轄となります。翌明治4年1月10日、桂宮家令宇田淵は、宮邸雁の間に家司ら34名を集めて、太政官よりの家禄下賜の沙汰を伝達しました。20日には、下桂村の別荘(桂離宮)が宮家へあらためて下賜するとの太政官の沙汰もあり、以後明治維新下における宮家の保存・維持にあたることになるのです。淵と長岡天満宮保存の関わりは、このような一連の動きのなかにありました。
淵は宮内省の官吏であり、「御附」として桂宮のほか、有栖川宮、閑院宮、久邇宮、山階宮などの家令も兼任していました。さらに明治9年からは、京都の公家華族保護のため「淑子内親王祗候」が設けられ、45家62人が、6人1組で桂宮家に輪番するようになります。『桂宮日記』には、この間の動きが克明に記録されていおり、いくら岩倉具視の腹心で有能・篤実な人物であつても、伝統ある公家社会や草創期の京都府との間で事務を取り仕切ることは、さぞたいへんな苦労だったことでしょう。明治11年、淵は病気療養のため、3ヵ月の休暇を余儀なくされています(2月14日条)。
桂宮家令として最も大きなできごとは、明治14年10月3日、淑子内親王が亡くなったことです。前年からの病気治療から死後の葬送まで、淵はさまざまな手配に奔走しました。淑子内親王の死によって、八条宮智仁親王以来11代、290年余り続いた桂宮家は廃絶となります。そして宮家財産を宮内省を引き継ぐため、さらに大きな責務が淵にかかります。桂宮別邸は桂離宮と定められて皇室財産となり(「桂宮日記」明治16年9月22日条)、宮家所蔵品のうち長持26棹・箱物(琴共)17個・書籍箱28個・屏風箱9個・金燭10本は、目録とともに御所御文庫へ引き継がれました(同11月5日条)。
そしていよいよ、桂宮家の称号が宮内省に預けられ(同明治19年2月12条)、桂宮邸建物と諸道具・金員は主殿寮出張所に引き渡され(同2月28日条)、ついにここで、桂宮家の長い歴史に幕がおりたのです。
◆大内保存所業と京都御所取締人~京都御所の保存~
淵は桂宮家令としての公務とともに、宮内省の京都担当としての重要な役割を担っていました。明治6年、明治10年と、天皇は行幸さいに度々桂宮邸に立ち寄り、お付きの人たちを含めた接遇や奉迎も淵の役目でした。明治13年の行幸では桂宮邸で大規模な御献能が催され、桂宮家総出の準備や接待のようすが、手にとるようにわかります(「桂宮日記」明治13年7月16~17日条)。
淵は、明治10年2月から始まった大内保存事業に伴って「京都御所取締人」を申付けられ、御所の建物の維持管理や、外国人拝観の案内などの任務にあたります。そのほか大宮御所・泉涌寺、修学院離宮など、このころ淵がどのような役割を担っていたのかは、京都府の永年保存文書から具体的に追うことができます(京都府立京都学・歴彩館所蔵、明09-0044・明10-0030・明11-0010・明16-0036ほか)。
◆宮内省御歌掛と西京華族研究会~西京の和歌会~
大内保存事業は、東京奠都後の御所荒廃を嘆いた明治天皇の命で始められたものです。明治天皇の意向をうけた岩倉具視は、この保存事業と併行して、京都に残った公家華族に対する経済的・精神的な支援策をとりました。その一つが華族を毎月1回集めて和歌の会を開催することです。東京宮内省の御歌掛と西京華族研究会の間で、兼題や詠進の短冊・詩箋がやりとりされるのですが、西京側の窓口となったのが、桂宮邸の宇田淵でした(宮内庁宮内公文書館蔵『御歌所日記』識別番号24399~24402)。このことは、文学者としての淵の後半生に大きな意味をもたらすことになります。
◆宮内省京都支庁から主殿寮出張所へ~東京の香川敬三、西京の宇田淵~
明治10年代における桂宮邸は、単に宮家の邸宅であるだけではなく、宮内省の京都支庁(出張事務所)となっていました。「桂宮日記」には、明治16年5月25日、京都御所保存計画を推進するために、岩倉具視が一族や部下を引き連れてここにきた時のようすが記されています。また25項目におよぶ「宮内省出張所詰官吏勤務心得」や、書記・火の元取締・受付・給仕など吏員20名の名があり、このころの桂宮邸のようすを知ることができます(明治16年5月25日条)。岩倉具視が病気で亡くなったのは、この直後の7月20日のことです。
明治19年2月6日、淵のもとに、官制改革に伴って桂宮邸の宮内省京都支庁が廃され、主殿寮出張所となるという御内翰が、宮内次官から届きました。これをうけ、淵はこの旨を主殿頭香川敬三に届けます。香川は、若かりしころ、蟄居中の岩倉具視のもとで止宿を共にした仲間です。主殿寮出張所長となった淵は、以後、東京の香川と共に、岩倉具視の京都保存の遺志を継いでいくことになりました。
◆故園の風雅~乙訓の漢詩人~
宇田淵は当時から漢詩人として名高く、梁川星嚴の門人としてさまざまな著作に関与し、皆に尊敬されていました。近年、新稲法子さんによって淵の漢詩や事績が幅広く研究され、さらに地元西岡における漢詩檀の活動との関わりが明らかにされています。
それによれば、地元で儒医をしながら勤皇の志士として活動していた幕末、淵は共研唫社の盟主として詩会を催し、ふるさとの友と交わり、「故園の風雅」を尋ね遊んでいました。淵が京都に移って共研唫社はいったん休止しますが、再び活動が再開され、明治15年に会員の詩を集めて『西岡風雅』という漢詩集が発行されました。その発刊に淵は題辞を寄せ、冒頭に「長岡紅葉・大原(野)花」の勝景にふれています。『西岡風雅』の漢詩人は14名【注1】で、そのうち4名が淵の兄や甥です。ここでは淵とゆかりが深く、乙訓で活躍した岡本爺平と正木安左衛門を紹介しておきましょう。
棠陰(岡本宣忠)こと岡本爺平は、淵の生家のすぐそば、神足町の大きな商家に生まれました。明治初年には乙訓郡の大庄屋として名があり、文芸に秀でた人物を数多く輩出した岡本一族の一人です(『長岡京市史本文編二』)。爺平は、長岡宮大極殿遺址の建碑にさいして史料や地名を調べ、実際に掘削してその場所を定め、長岡宮保存に大いなる貢献をした人物でもあります。また漢詩ばかりではなく和歌にも造詣深く、大極殿遺址建碑の完成をみた明治28年6月には、山階宮が主催する向陽会の歌会に、淵とともに招かれています(宮内庁宮内公文書館蔵77629「山階家実録」25 明治28年6月23日条)。
聳山(正木良慈)こと正木安左衛門は、天保11年(1840)に今里村の庄屋の家に生まれました。明治になってからは今里村の区長や京都府議会議員を務め、明治25年(1950)に衆議院議員に当選し、長岡宮大極殿保存会委員の一人でもありました。聳山は幼少のころ宇田淵の兄退蔵(長法寺村住)から漢学を、江馬天江に詩文を学び、漢詩を愛好しました。幕末には、共研唫社に淵を盟主として迎え、さらに明治から大正期まで、乙訓漢詩檀の中心として活躍しました。
淵が老衰を理由に公務から退いたのは、明治28年7月のことで、まさに「長岡宮城大極殿遺址」の石碑が完成した時です。しかし、大雨で石垣が崩れたため、建碑式は10月に延期されたのでした。石碑建立と淵のかかわりは、幾ばくかの寄付に応じていること、10月に行われた建碑式に招待されていることの2つの事実しか確認できませんが、ふるさとの親しい人々の活躍を見つつの引退は、最後を飾るのにふさわしい出来事だったのではと思えてなりません。
こころの花~死に臨んで詠んだ歌~
淵は自ら語っているとおり、明治になってからは漢詩をつくることをやめ、和歌を詠むようになりました。「ただ心に思うことを詠み、これを学ぶことが本当の日本人のこころである」と、淵は述べています。この言葉を聞き取った黒田譲は、その時のようすを「翁はこの時71歳。しかし顔の血色はよく、客に対する時を常に楽しんでいる。翁が身のうちに蓄え育ててきたことの深く大きいことを示している」と記しました(『名家採訪録』)。宇田淵は、好きな歌を詠みつつ、明治34年(1901)4月17日、享年75歳でこの世を去ったのです。
淵の代表的な歌集が『栗廼花』で、淵の死後3年にあたり、嗣子宇田豊四郎が刊行したものです。宮内省御歌掛を務め、向陽会設立にも淵と共に活動した友人、高崎正風が序文を寄せています。『栗廼花』に収められたのは、春歌30首・夏歌36首・秋歌30首・冬歌24首・雑歌122首。このなかから、勤皇の志士としての生涯を全うした、淵らしい2首を紹介しておきましょう。
*主殿権助に任せられしをりに
「けふよりはにしの都のとのもりとなりてそまたん 君の御幸を」
*明治三十四年四月なかは重き病にかゝりこゝち死ぬへうおほえけるをり かしこき仰せことうけたまハりて 「死出のやまわけゆくミにもわすれぬそわか 大君のめくみなりけり」
【注1】『西岡風雅』(向日市文化資料館本)の漢詩人 ( )の人名は原文のまま
①振々斎(宇田善嗣) ②秋嶺(宇田密) ③玩龍(佐藤牧厳) ④棠陰(岡本宣忠) ➄西樵(上羽精成) ⑥聳山(正木良慈) ➆雪窓(宇田弘) ⑧研谷(宇田郁) ⑨紫山(藤井穎) ⑩碧涛(八山玹道) ⑪強堂(秋山楽) ⑫敬軒(樋口忠篤) ⑬桑泉(森本和) ⑭犬川(岡本宣光)
【注2】宇田淵に関する内容は、2017年9月19日に乙訓宇田淵研究会で発表した「桂宮家令宇田淵の事績とその後」をもとに、宮内庁書陵部・宮内公文書館、宮内庁京都事務所、京都府立京都学・歴彩館、京都市歴史資料館、京都市企画局推進局、向日市文化資料館、長岡京市教育委員会において行った調査をまとめたものです。ご教示いただいた会員、およびお世話になった関係機関のみなさま、ありがとうございました。
ー参考文献ー
・黒田譲『名家採訪録』1901年
・宇田淵著、宇田豊四郎編『栗廼花』1904年
・玉城玲子「地域文化の形成」『長岡京市史』本文編二 第2章第3節 1997年
・新稲法子「長岡京市正木彰家文書の詩稿について」㈠~🉁 『上方文藝研究』第10号~12号 2013~2015年
・新稲法子「宇田栗園と漢詩」『和漢比較文学』第57号 2016年
・日浅忠行「実相院門跡坊官宇田家とその一族」『乙訓文化遺産』2016年
・吉岡眞之・藤井譲治・岩壁義光『桂宮実録』第7巻 盛仁親王・節仁親王・淑子内親王 ゆまに書房 2017年
「桂宮日記」明治4年1月10日条(466-1冊子№612) 桂宮家令宇田淵が太政官の沙汰を伝達する
西国街道神足町
岩倉具視幽棲旧宅
京都御苑桂宮邸跡(奥に見えるのは朔平門)
京都御所 朔平門
現在軸装で伝わる6首。「住みてもみたき山陰の庵」・「嵯峨野の奥」は、山中献が隠棲した嵯峨野の庵をさしているのだろうか?。勤皇の志士山中献(1822-85)は、謹慎中の岩倉具視のもとに出入りし、淵とも旧知である。王政復古後は新政府に出仕し、明治3年12月に淵とともに従五位・京都府貫属士族に列せられ(京都府史第1編)、閑院宮家や北白川宮家の家令を務めた。書画・詩文に巧みで、晩年は嵯峨に住んで文人・墨客を友とした。