三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⒅ 2019.03.13                     

長岡大明神と「由緒ある建物」の流転

~村社長岡天満宮の再出発~

◆御領所すべて上地

 大政奉還、戊辰戦争を経て、天皇は東京行幸のまま。桂宮邸の周りもすっかり明治の世となりました。明治4年1月10日、桂宮家令となった宇田淵は家来たちを集め、これからは太政官の家録付与になるとの沙汰を伝達します(「桂宮日記」明治4年1月10日条)。そして御領所上地の布告をうけた2月19日、長岡大明神社役渋谷清見は、かねての打ち合わせにしたがい、熊本藩邸へ向かいました(2月19日条)。

 翌2月20日、渋谷の事前の段取りのとおり、桂宮家参使平岩正人は熊本藩邸において、「細川幽斎にゆかりの深い熊本藩へ長岡大明神を預ける」旨の宮家の思召しを伝えます(2月20日条)。これをうけ、熊本藩留守居中島彦蔵は参上して、藩知事の承諾を得たが、遠路藩元へ運ぶのは不都合なので、まずは京都の藩邸に移して、そのうえで御遷座を行いたいと答えています(2月23日条)。2月26日には、熊本藩より京都府へ、長岡大明神と「由緒ある建物(開田御茶屋)を預かる」旨を届けたとの書状が、宮家にもたらされました(2月26日条)。

 そして4月5日、熊本藩邸において遷座式が執り行われ、桂宮家従塚田守馬が、「初穂米1石と御印付灯籠台を供える」旨の沙汰を申し渡しています(4月5日条)。8月20日の幽斎忌日には、宮家参使中小路奥之助が代参しました(8月20日条)。

 ◆長岡大明神と御茶屋建物の運命が分かれた日

 これでやっと落ち着くかにみえたましたが、またまた問題がおこります。京都の熊本藩邸が取り払われることになったのです。10月15日、宮家の朝倉信夫は熊本県邸に向かい、長岡大明神を宮家邸内へ引き取ることを申し入れます。そして18日、社役渋谷清見を派遣して遷座式を執り行い、長岡大明神は桂宮邸に移されました。10月20日に桂宮家令宇田淵が京都府に提出した届書から、この間の複雑な動きがわかります(「桂宮日記」明治4年10月20日条)。つまり長岡天満宮から熊本藩邸に引き移された長岡大明神と開田御茶屋の「由緒ある建物」のうち、前者は再び桂宮邸に戻り、後者は熊本藩邸に残って、それぞれ別々の運命をたどることになったのです。

 結論だけを申しましょう。長岡大明神は、今も京都御苑の桂宮邸跡で、宮内庁京都事務所の方々によって、大切にお祀りされています。一方、開田御茶屋の「由緒ある建物」は、紆余曲折を経て、熊本水前寺成趣園の「古今伝授の間」として再生され、多くの人々に親しまれています。

◆長岡天満宮社地建物の引き渡し

 11月16日、いよいよ京都府検地掛が「長岡天満宮社地建物の返献書類を差し出しなさい」と、回答を迫ってきました。そして12月3日、京都府から宮家に対し、天満宮社地建物等を請け取るため「明日12時に官員を派遣するので、出頭しなさい」という達しが届きます。翌4日の返献に、宮家として立ち会ったのは朝倉信夫、京都府から出張してきたのは土木掛吉田賀三郎でした。引き渡しを終えた翌5日朝倉信夫は、石原と中小路らに「今日限りで御社奉仕を免じる」沙汰を言い渡し、この旨を開田村役人にも伝えました。この日、江戸時代260年に及んだ桂宮家と長岡天満宮の深い縁が、とうとう終焉を迎えたのです(明治4年12月5日条)。そして12月22日には、政府へ引き渡す長岡天満宮神用の品々の書上も差し出されました(12月22日条)。

◆開田村社・長岡天満宮の再出発

 上地を控えた明治3年12月、長岡天満宮社掛御家来石原若狭守・中小路駿河・中小路能登の3名は、桂御所嶋小路稲葉頭の奥書を添え、本殿・末社等の書き上げを京都府社寺役人中へ提出します。翌年1月、桂宮邸において新しい時代の到来を告げられた石原方義と中小路宗脩は、桂宮家令宇田淵に対し、長岡天満宮の存続を願い出ます。もちろん宇田淵は、彼らとは旧知の中で、桂宮家との深い由緒・事情や、地元の心情を熟知しています。上地により、24町余りあった境内地は中心部の5町余りに縮小されますが、いったん京都府へ差し出された本社・末社、神用品々は、村社となった長岡天満宮に引き継がれました。宮家領上地の動きのなか、長岡大明神と「由緒ある建物」の移築・保存が図られ、長岡天満宮が村社として残再出発できた背景には、桂宮家令宇田淵の立場と尽力があったのです。

 明治7年1月、開田村は京都府に対し、絵図を添えて、境内区別の再検査を願い出ます。また翌年には、長岡天満宮詞掌中小路宗脩・開田村戸長丸岡勘兵衛・乙訓郡第二区長岡本三郎兵衛が、京都府に「長岡天満宮取調書」を提出します。そこに添付されているのが、冒頭に掲げた四季の花々に彩られた美しい境内絵図です。この絵図は、村方が長岡大明神と開田御茶屋の主屋が移転された直後のようすを描いたものです。明治維新を切り抜け、村社として再出発しようとする天満宮を象徴する、珠玉の1枚といってようでしょう。

 このころ(明治10年頃)のようすを写した写真が、明治天皇に献上された『京都写真帖』(宮内庁書陵部蔵)にあり、また『京都鑑2』に原版を同じくする1枚が伝わっています(京都府立京都学・歴彩館蔵)。そこに写っているのは、霊元上皇寄進の石鳥居と開田御茶屋の築地塀で、この構図は、後に出版された『京華要誌』(平安京遷都1100年記念事業の出版物)にも採用されました。実は、名勝として写された美しい風景の陰で、長岡天満宮の苦難の長い道のりが始まっているのです。近代の神社としてどのように再生を図っていくのかは、稿を改めて紹介しましょう。

 

ー参考文献-

・玉城玲子「長岡天満宮と桂宮家」『長岡京市史』本文編 1997年

・水戸政満「近代の展開」『長岡天満宮史』 長岡天満宮 2002年

・高木博志「明治・大正期の長岡天満宮の整備」『長岡天満宮資料調査報告書』 長岡京市教育委員会 2014年

・宇治市歴史資料館『よみがえる明治の日本』 2017年

 

 YouTube長岡社頭・開田御茶屋跡 に動画があります。

長岡大明神を熊本藩に預ける思召 宮内庁書陵部蔵「桂宮日記」明治4年2月20日条(466-1冊子№612)

長岡大明神を熊本藩邸から八条宮に引き移す届 宮内庁書陵部蔵「桂宮日記」明治4年10月18日~20日条(466-1冊子№613) 

長岡大明神と「由緒ある建物」引き移し直後の境内

京都府立・京都学歴彩館蔵 京都府庁文書 明治07-002

長岡天満宮境内 開田御茶屋築地跡

長岡天満宮境内 開田御茶屋土塁跡


桂宮邸址(京都御所今出川御門南)

南西の四脚門を入ったところに、今も榊社と長岡大明神が祀られています。

本藩邸址(京都市下京区仏光寺通下ル壬生川)



長岡天満宮図 『京華要誌』京都市参事会発行 1895年