◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⒀ 2018.11.5
◆万灯のゆらめき
長岡天満宮は安永・天明の大修理を経た享和2年(1802)、菅原道真900年御神忌を迎えます。公仁親王亡きあと、その遺志を継いだ寿子親王妃もすでに没し、空主のなかでの大祭催行でした。この時の一部始終を記した「長岡天満宮九百年御神忌雑記」が伝わっており、藤井譲治・有坂道子氏によって全文が翻刻されています。この記録は京極宮家の家司で、900年御神忌御用掛(係)塚田主税・長屋正親によって作成されたものを、長岡天満宮祝詞師石原若狭守が書き写した冊子です。
江戸時代の長岡天満宮は、「京極宮様御林」にある「御茶屋」の「御内社」、つまり宮家領内にある御茶屋(別荘)の鎮守です。しかし天神信仰の広がりを背景に、庶民にも開かれた天満宮ともなっていたことを、この記録から具体的に知ることができます。図入りの記録を読み進めると、安永・天明の大修造で清々しく整備された社殿が幕で飾られ、そののまわりに紋付の高張提灯が立ち並び、開田村の宮仲間や近郷の人々が奉仕する一万灯(灯明皿で朝夕500づつ、10日間)がゆらめくようすを、目の当たりにするような気持ちになります。
◆御茶屋の修復
「雑記」に記される内容は興味が尽きませんが、ここでは「御茶屋」に絞って紹介しましょう。まず、翌年に万灯祭を控えた享和元年秋、家司長屋正親の「万端示談」のもと御茶屋修復が行われました。熊本水前寺公園の「古今伝授の間」修理のさい、床框から「享和元年辛酉十月」・「御くさり間御床」の墨書が発見されましたので、現在残る部材と記録とがピッタリ一致します。「鐔(鎖?)の間」の北十畳の部屋は、祭会中の諸太夫の休息所として用いられることになり、御茶屋の東面には紫の幕がかけられ、東門前(馬繋ぎの西)・北入口・西入口・台所口にそれぞれ一張の御紋付提灯がかざられました。
「雑記」に描かれた御茶屋のようすを下に示しておきます。この図からは、御茶屋の主棟に台所棟・客屋棟が連なる京極宮3代の盛時をうかがうことはできません。「このたび古来のとおり相調えた」とありますので、主棟だけの元の形(八条宮智仁親王が細川幽斎から古今伝授をうけた座敷に若干の機能を付設)に修復されたのでしょうか。
-参考文献-
藤井譲治・有坂道子『享和2年長岡天満宮九百年御神忌雑記』2003年
*記録の全文翻刻を敢行された両先生と長岡天満宮に、敬意を表します。
西国街道一里塚付近
西国街道向日神社門前
享和2年(1802)の祭会準備にあたっては、前回の宝暦2年(1752)の記録が引き継がれ、これを参考にして進められました。万灯祭催行を知らせる建て札も前例にしたがい、宮仲間が準備します。大池周辺や西国街道一里塚など開田村のほかには、町奉行所に届け出たうえ、堀川通下立売・三条橋詰・五条橋詰・東寺北之門大宮通之辻・向日町(向日明神鳥居南脇)・横大路八町縄手(伏見口)の六ヵ所に建てられました。