◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⑺ 2018年7月20日
◆桂宮家実録
「桂宮」と聞くだけで、なんとなく雅で華麗な雰囲気を感じます。しかし「八条宮」との関係をすぐに思い浮かべることは、なかなかむずかしいですね。実は同じ宮家で、下の系図に注記したとおり、宮号が「八条宮」→「常磐井宮」→「京極宮」→「桂宮」と受け継がれたのです。
系図に示したとおり、実子による宮家相続は八条宮智仁親王ー智忠親王の2代、京極宮文仁親王ー家仁親王ー公仁親王の3代の2時期だけで、後嗣に恵まれない時は、天皇家からの養子により維持されました。たびたびの宮号の改称は、このような「お家の事情」を反映したものです。宮家領3000石は、近世公家領のなかで最も多く、豊臣秀吉や徳川家康の庇護のもと、宮家としての立場・環境・財力に恵まれ、後水尾天皇や霊元天皇との深い関わりのなかで、宮廷文化の中心的な位置を占めた「稀なる系譜」といってよいでしょう。
◆旧桂宮伝来資料の保存
桂宮家では幼くして亡くなる親王が多く、特に江戸時代後期は、たびたび空主となりました。このようななか、宮家の存続と伝統を支えたのは、創設以来の家司たちです。明治維新後は、岩倉具視の側近・宇田淵(うだえん)が家令として重要な役割を担いました。
明治14年(1881)、病気のため淑子内親王が没すると、290年余り続いた桂宮家は廃絶となり、宮家や下桂御茶屋(桂離宮)の敷地・建物・諸道具は、主殿寮に引き継がれます。明治19年、桂宮旧邸に主殿寮京都出張所がおかれ、宇田淵はその所長を拝命して、宮家の財産保全にあたりました。
旧桂宮家には、智仁親王ー智忠親王の代(桃山~江戸時代前期)、家仁親王の代(江戸時代中期)を中心として、宸翰・書籍、屏風などの調度品、茶道具、和歌・典籍のほか、厖大な美術品や資料が伝来しています。このなかには、高名な御物・国宝となった優品も多数あり、現在は宮内庁三の丸尚蔵館・書陵部、宮内庁京都事務所、東京国立博物館などに分蔵されています。宮家のたどった数奇な歴史をふまえると、「旧桂宮家伝来〇〇〇」の一つ一つが、いっそう味わい深くなります。これからの「つれづれに長岡天満宮」シリーズをご覧いただく時、系図や資料の伝来を参考にしていただければと思い、このページをつくりました。
-参考文献ー
・『旧桂宮家伝来の美術-雅と華麗』 宮内庁三の丸尚蔵館 1996年
・『桂宮家実録』全7巻 ゆまに書房 2016年
宮内庁三の丸尚蔵館と書陵部は皇居の中にある
宮内庁京都事務所(京都御苑)
*宮家創設:天正18年(1590) 宮家廃絶:明治14年(1881)
*公仁親王没後は寿子親王妃が家主となったが、寛政元年没後21年間は空主 *盛仁親王没後24年間は空主 *節仁親王没後26年間は空主
*宮号 【八条宮】①智仁親王~⑤尚仁親王 → 【常盤井宮】作宮 → 【京極宮】⑥文仁親王~⑧公仁親王 → 【桂宮】⑨盛仁親王~⑪淑子内親王