◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮(27) 2019.10.15
◆京都府「長岡町」の誕生
あらためて、長岡天満宮の所在地を振り返りましょう。江戸時代は山城郡乙訓郡開田(かいでん)村、明治になってからは、京都府乙訓郡第三区開田村、そして明治22年(1889)に市制町村制が施行されると京都府乙訓郡新神足村大字開田となります。そして終戦後の昭和24年(1949)10月1日、戦後の町村合併の動きをうけ、新神足村・海印寺村・乙訓村の3ヵ村が合併して「長岡町」が誕生し,京都府長岡町大字開田となりました。今から70年前のことです。
新しいまちの名は住民投票で決められたようで、京都府知事木村惇は「三村は交通関係・教育関係・水利耕地関係等においてつとに密接不離の関係にあり、殊に新神足村・乙訓村は最近工場地帯として著しく発展を遂げて来たのと、一面小村の分立は財政的に行き詰まりを生じてきたので、今回利害共通する三村を合併して人口一万有余の基礎強固な自治体を形成し、その名称もこの際心気(機)を新にするため、往昔長岡京のあったゆかりにちなみ、長岡町として今後大いに町的施設を完備し、将来一層の飛躍発展を期そう・・・」と述べています(京都府庁文書25-9-1「市町村配置分合境界変更」)。
もちろんそのころは、長岡京の存在に対する認識が浸透しているわけではありません。それにもかかわらず栄えある「長岡」の名が選ばれたのは、なんといっても長岡天満宮の存在です。下の図をみれば、奇しくも長岡天満宮が、まちの真ん中に位置することになりました。昭和の初め、新京阪「長岡天神駅」の開設のころ、長岡グラウンド・長岡競馬場・タキイ長岡研究農場・長岡禅塾などが次々開設されていましたので、ナガオカのブランド名は、発展していく新しい町の名前として自然に受け入れられ、定着したのは当然です。
昭和30年代になると、新京阪長岡天神・国鉄神足駅最寄りの利便性によって、さらに企業の研究施設や工場が進出し、新興住宅がものすごい勢いで建設されるようになります。長岡天満宮や八条ヶ池は、目玉観光地であるばかりでなく、新住民にとっても憩いの場となり、江戸時代よりたゆみなく植栽されてきたキリシマツツジは、まちのシンボルフラワーとして親しまれるようになりました。
◆市制施行と「長岡公園」
昭和47年、人口増加に対応すべく長岡町は市制施行の準備を本格的に始めます。まず5月、全戸に公募用紙を配り、新市名を募りました。このとき応募があったのは「乙訓市」・「西山市」・「京長岡市」・「長岡天神市」など147種類ですが、この中から市名選考委員会の全会一致で選ばれたのが「長岡京市」です。「長岡」の名を残したいという住民の願いと、由緒ある「長岡京跡」とのつながりが決め手となりました。長岡京の遺構の広がりが、考古学的に証明されるのはまだまだ先のことですが、新しいまちづくりに「みやこ」というイメージがぴったりとはまったのでした。
このころ、長岡天満宮周辺にとっても大きな出来事がありました。かねてから総合(運動)公園の構想をもっていた八田敏夫市長は、長岡グラウンドに隣接する土地買収の交渉を始めます。すると総合公園の趣旨に賛同した所有者の佐藤真如氏から、「ポンと数億円の土地」が寄付されることになったのです(市民広報長岡京133号)。明治の上地によって民有地となった天神山一帯が、ふたたび緑豊かな長岡公園-身近なオアシスーとして保全されたことは、長岡京市民の住環境にとっても、長岡天満宮の歴史的環境にとっても意義深いことだといえます。昭和48年10月1日、佐藤真如氏に名誉市民の称号が贈られ、長岡公園の一画に銅像が建立(昭和53年)されました。
-参考文献-
・中山修一「長岡という地名」『乙訓文化』第30号 1971
・『長岡京市史』本文編二 1997年
3ヵ村と長岡天満宮
観光まつり
長岡町観光マップ
ボートで楽しむキリシマツツジ 長岡天満宮蔵 写真:長岡京市教育委員会提供 表:『長岡天満宮資料調査報告書 古文書編』2014より
名誉市民・佐藤真如の銅像と長岡公園 佐藤真如は明治30年1月生まれ。浄土真宗仏教専門学校卒業。早くから社会援護活動に献身し、大正12年の関東大震災で親を失った孤児のため救援運動を行い、真宗園裁縫塾を設立。戦後は引揚者の生活安定のために真宗園を提供して、自立更生に貢献した(市民広報長岡京133号)。佐藤真如は阪急西向日駅に隣接する真宗園の跡地も向日市に寄付し、現在西向日公園となっている。