◆三思一言◆◆◆2018.04.04
◆山河襟帯
歴史地理学者金田彰裕先生は、御著書のなかで、平安京ー京都ほど多様な地図を伝える都市はないと述べておられます。学ぶべき様々な内容満載ですが、「洛外図屏風」との関連で強く興味をひいたのが「新板平安城東西南北町并洛外之図」と題して普及した出版絵図の分析です。江戸時代に突如「平安城」とは・・・。ここに描かれるのはまさに、三方を山、南を川で画された「山河襟帯」のみやこの認識です。「山河襟帯」は、延暦13年(794)、新京に遷った直後、桓武天皇がだした「山背国」を「山城国」と改め、都を平安京とする詔(『日本紀略』延暦13年11月8日条)に登場する言葉です。政権が江戸に遷った後、なお超越した歴史・文化のブランド力で再生していく、近世都市京都にぴったりですね。
注目されるのは、この地図がさかんに出版されるようになるのが、承応3年(1654)・明暦3年(1657)と、「洛外図屏風」の成立と軌を一にしていることです。その後大型本の「新版平安城并洛外之図」は、京都所司代の交代に密接に関連して開版・改版が繰り返されました。このことも、「洛外図屏風」が祖本をもとに部分的な改訂を加えられ、幕府要人のもとに送られた動きと共通しています。
◆京都認識・京都イメージ
金田先生は、洛中洛外図のような屏風は、地図とは別の主題・表現に対する分析方法が必要だと述べておられます。「洛外図屏風」を地図の歴史のなかでどのように位置づけるのか、私の力の及ぶところではありません。しかし17世紀の半ば、御土居を破壊する都市域の拡大、交通網の整備による街道や町場の繁栄、さらに寺社の復興・修復や御茶屋(離宮・別荘)の造営による宗教・文化の広がりを背景に、近世都市京都を表現する媒体として、絵地図普及の大きな流れのなかにあったことは間違いありません。
「洛外図屏風」(鳥瞰図屏風)は、17世紀の中頃に、幕府御用大工頭中井家が「洛中絵図」(平面の手書き絵図)とセットでつくったものです。洛中の周りに洛外の点描を組み合わせるパターン(屏風・平面図)もたくさんあり、特定の政治的な需要に応じて制作・写し・改訂が繰り返されました。出版絵地図のように庶民に広く普及したものではありませんが、今なお生きている京都認識・京都イメージの内容を余すことなく伝える根本資料の一つ、といっても過言ではないでしょう。
-参考文献-
・金田章裕『古地図でみる京都』 平凡社 2016年
愛宕山(京都タワーから) 手前の大伽藍は西本願寺
西山(京都タワーから) 左手前の大伽藍は東寺
比叡山(京都タワーから) 手前の森は枳殻邸
東山(西山公園体育館から) 中央の高いビルはJR長岡京駅付近
天王山と男山(京都タワーから) 手前のビルは京都駅
醍醐と稲荷(京都タワーから) 東福寺の大伽藍が見えます。
ー「洛外図屏風」を楽しむ・おわりー