三思一言2018.03.21

町奉行の支配と絵地図

◆奉行所の絵地図

 「洛外図屏風」が幕府のもとで、政治的に制作されたことはすでにご紹介したとおりです。しかし、どうしてこんなに名所・旧跡までもがくわしく描かれているのだろうか、ともう一つわかりません。そんなとき出会ったのが、朝尾直弘が紹介した和泉国絵図の事例です。

 和泉国絵図の原題は、「壱里八寸積り和泉国分間絵図全」(分間絵図は正確な測量をもとに、絵画的表現を取り入れてつくられた絵地図)縦167cm、横300cmの大きな絵図で、堺奉行が配された直後の元禄9年(1696)7月、大坂町奉行所が新しく配下となった和泉国に対して作成を命じたものです。道・川・池の長さや方向、名所・旧跡などを描いた絵図を村方でつくり、村と村、郷と郷とが絵図元の庄屋宅に寄り集まって「一郡切」の絵図を調整したことが関連資料からわかります。このような郡ごとの絵図を全体図としてまとめたのが「和泉国分間絵図全」です。朝尾先生の論文を読んで、名所・旧跡が、幕府の絵地図にとっても必須の内容だったことを納得できたのです。.

 また、堺奉行を務めた若狭野浅野家資料(龍野歴史文化資料館蔵)も、管轄地の支配のためにつくられた絵地図の様相がよくわかる貴重な事例です。堺を詳しく描いた大きな町絵図をはじめ、奉行所の建物、河川支配や寺社支配にかかわる多様な手鑑(てかがみ)絵図があり、行政のさまざまな場面で絵地図が使われたことが伝わってきます。

 

◆鴫谷山山論裁許絵図 と飛賀山小物成山絵図 

 京都町奉行所が成立したのは寛文8年(1668)のことです。まとまった京都町奉行所の資料はないのですが、配下の雑色五十嵐氏・小島氏の記録が翻刻されており、また荻野氏の古文書(京都市歴史資料館寄託)が閲覧できるようになり、さかんに絵地図をつくっていたようすがうかがえます。ここでは、乙訓地域の村方に伝わる2点の山絵図を紹介しておきましょう。

 鴫谷山(しぎたにやま)は乙訓の西部、西山に分け入る善峯道の入り口にある山です。ここは小塩村領内でしたが、麓の井ノ内・今里・鶏冠井・上植野4ヵ村も柴や草を刈り取る権利をもっていました。この下の示した絵図は、小塩村と4ヵ村で起こった相論を、発足したばかりの京都町奉行所が裁許した絵図です。裏にはその内容を記した文言に、京都所司代板倉重矩と西町奉行雨宮正種の黒印が、また表の絵図面にも割り印があります。この時につくられた正本2枚と副本1枚の裁許絵図は、各村交代で保管されました。

 飛賀山は鴫谷山の南、粟生光明寺裏にある幕府の運上山です。ここは古くから今里・井ノ内・粟生が場所を分けて柴草の利用をしており、幾度も村同士の争いが起こっていました。安永年間にも再び相論となり、この時に京都町奉行所の手代二人の検分のもと、あらたに調製されたのが下に示した絵図です。注目されるのは裏書の最後に記された「絵師矢野長兵衛」の名です。矢野は代々長兵衛を名乗り、江戸時代中期から活躍する絵図師です。山城・大和・近江の各地に、彼の手掛けた多彩な絵地図が数多く伝わっています。

 乙訓を代表する山論絵図2点から、町奉行の支配のなかで絵地図が果たした役割を理解していただけるでしょうか。

 

-参考文献-

・堺市博物館『堺奉行の新資料-いま描かれる豊かな都市像-』2013年

・朝尾直弘「和泉国の分間絵図と国絵図」『朝尾直弘著作集』第二巻、岩波書店、2004年。

・朝尾直弘編『京都雑色記録』京都大学史料叢書 思文閣出版 2003年

・京都市歴史資料館「テーマ展 絵図のまなざし」2016年

 

 

鴫谷山山論裁許絵図 寛文9年 138.2×316.0cm *向日市文化資料館『むこうし・おとくにの絵図・地図・写真』2013より転載。所蔵:上植野区・長谷川治良。

 

飛賀山御改絵図 安永9年 92×194cm *『長岡京市史』資料編三付図より転載。所蔵:今里区。

鴫谷山と飛賀山(善峯寺から。遠くの山並みは東山)

「洛外図屏風」をみると、京都周辺の山々は松が卓越していました。鴫谷山絵図には、松林のなかに芝地・茅畑・竹藪が描き分けられ、当時の植生がわしくわかります。