三思一言2018.03.09

「洛外図屏風」と京都所司代

◆江戸時代初めの京都支配

 江戸時代初めの京都所司代は、京都の制圧、朝廷・公家の監察、西日本大名の監視、畿内8ヶ国の民政などの要となった幕府の要職です。

 特に元和6年(1620)、父板倉勝重の跡を継ぎ、30年余りの長きにわたりその職にあった板倉重宗は、徳川秀忠・家光のもとで京都支配を担いました。秀忠没後の寛永10年(1633)、淀城に永井尚政、勝龍寺城(神足館)に永井直清を配し、西国への備えを固めます。重宗の政治的な手腕は高く評価されているところですが、後水尾上皇や宮廷からの厚い信任のもと、京都の文化人らとさかんに交流し、学芸への造詣にも深かったことが、さまざまな史料に記されています。

 

◆板倉重宗の時代が終わる

 3代将軍家光の死に伴う家綱への将軍交代を機に、承応2年(1653)、板倉重宗は江戸へ参府して辞任を申し出ます。新たに就任したのが牧野佐渡守親成です。牧野は家綱の御側衆にあったのを、承応3年11月、所司代に抜擢され、着任しばらくは重宗も後見として政務にあたりました。重宗は、明暦2年(1656)8月には引退し、その年の12月に没します。寛文8年には永井尚政も亡くなり、秀忠・家光のもとで築かれた一時代が終わったといってよいでしょう。

 寛文8年(1668)、牧野に替わって着任したのが老中板倉重矩です。重矩は重宗の甥にあたり、家綱の補佐にあたる重要人物です。在職わずか2年ですが、京都町奉行の設置という上方支配の大改革、御土居・稲荷山・深草山の検分、鴨川の石垣普請着手など、精力的に重要課題に取り組みました。

 その後、永井尚庸(着任寛文10年)、戸田忠昌(着任延宝4年)と、江戸から将軍の側近が交代で派遣されるようになります。このころから奏者番を振り出しに寺社奉行を務め、大坂城代ないしは京都所司代を経て老中になるという昇進コースが定着していくのです。

 「洛外図屏風」がつくられたのは、まさにこのような時代の転換期のことでした。「洛外図屏風」祖本は、板倉重宗から牧野親成の交代を契機に成立しました。『都の形象』本はそれより後、牧野から板倉重矩へ交代するころとみてよいでしょう。また、中井本の制作年代は延宝7年(1679)ごろで、老中稲葉正則のもとに送られた「屏風絵図」に該当する可能性があります。通称「寛文洛中洛外絵図」(京都府立総合資料館所蔵中井家文書)に、延宝7年6月、「稲葉美濃守(稲葉正則、老中)」へ「屏風絵図」が贈られたことを示す貼り紙があるからです。新しい時代の京都を掌中にしたい幕府要人の意向をうけて、「洛外図屏風」が次々と制作されたのではないでしょうか。

 

ー主要参考文献ー

・朝尾直弘「京都所司代」『京都の歴史』四 学藝書林 1969年

・井ヶ田良治「近世的秩序の形成」『長岡京市史』本文編二 1997年

・榊原悟「長圓寺・板倉家の京文化」『万灯山長圓寺文化財総合調査報告書』 西尾市教育委員会 2015年

「総合資料館所蔵の中井家文書について」『資料館紀要』第10号、京都府立総合資料館、1981年

鴨川(四条大橋から上流をみる)

 寛文8年から着手された鴨川の改修が完了したのは寛文11年。川筋はまっすぐになり、堤は石垣となりました。鴨川東岸の竹藪は切り開かれ、四条河原の芝居小屋は北座・南座に編成。大和大路の両側に、ぎっしりと町家が建ち並ぶ祇園界隈殷賑のルーツ。中井本の描写はとりわけ克明で、御土居を突き破る開発のエネルギーを感じずにはいられません(右隻第5扇)。

 

 

淀城跡

 左隻第7・8扇には、淀城の姿が余すところなく描かれています。伏見をひかえ、宇治川・大池(巨椋池)・淀川に浮かぶ勇姿は圧巻です。

淀城跡 (濠の向こう、遠くにみえるのは愛宕山)