◆三思一言◆◆◆2018.02.12
◆なぜ「洛外」だけ?
京都を描いた屏風というと、だれでも思い浮かべるのは「洛中洛外図屏風」ですね。インターネットで「洛外図屏風」と検索しても、でてくるのは「洛中洛外図屏風」ばかりですので、なにをいっているのだと訝る方がほとんどでしょう。
大学院の入学試験の時、歴史地理の上杉和央先生から「なぜ洛中を描かないで、洛外だけなのか」と質問されました。また演習では「なぜ御土居を描かないのか」とも問いかけられました。戦国時代から近世の京都を描く屏風は、いずれも都市部の洛中を主題とし、周りに清水寺、祇園社、上賀茂・下鴨神社、渡月橋など洛外の名所を配するのが一般的で、「洛外」のみを主題とする絵地図は極めて特異なことです。上杉先生からの質問は当然のことですが、それに答えられるような先行研究はなく、私にはとても解けそうにない難問でした。しかしこの問題こそが、「洛外図屏風」の本質に近づく道になるのだろうという予感はしていました。 なにかヒントはないだろうかと、京都国立博物館から提供いただいた中井本(個人蔵、下記の幕府御用大工中井家とは関係ない)のデジタル写真を解読し、諸本4点を繰り返し比較しても、答えをみつけることができません。「課題にしておこう」と修士論文のまとめにかかったころ、大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)で、「世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の建築指図」というテーマの展覧会が開催されました。幕府御用大工頭を世襲した中井家は、江戸時代を代表する建物(城、内裏、御茶屋、所司代・奉行所屋敷、寺社、茶室)を手掛け、伝来した膨大な建築指図が重要文化財に指定されています。谷直樹館長の熱のこもった講演、迫力満点の展示、学術的かつ美しい図録に接するなかで、ふと気が付いたのです。「洛外図屏風」は、中井家がつくった「洛中絵図」とセットなのだということを。
◆洛中・洛外の書き絵図
中井家が大工として測量技術に優れ、早くから洛中の精密な絵地図を制作していたのはよく知られているところです。紹介されている代表的なものとしては、宮内庁所蔵「寛永14年洛中絵図」と、京都大学図書館所蔵「寛永後万治前洛中絵図」があげられます。いずれもヘラ書き方形グリッドが施された貼継大型料紙に、御土居とその内側を正確に実測してつくられています。また町・田・畠・野畠・山林・林・藪等の別を記し、町名・道幅・間口・奥行を記入し、貼り紙は武家が青色、公家屋敷が黄色、寺院が柿色と色分けをしている手の込んだものです。宮内庁書陵部本は、中井家指図群の中に含まれて伝来し、京都大学付属図書館本に「中井役所」・「中井控」とあるので、洛中絵図が中井家によってつくられたことはまちがいありません。宮内庁所蔵本の注記からは、下絵図をもとに清絵図がつくられたこともわかり、多くの写しや改訂版が残っています。
さらに中井家は、この「洛中絵図」をもとに、周りに洛外の素描(鳥瞰図)を配する洛中・洛外の絵地図もつくり、幕府の京都支配に供しました。しかし平面図だけでは、京都盆地の全体を同じ精度で正確に描くのには限界があります。そこで生み出されたのが、8曲1双の長大な画面を確保し、洛外のみを主題とした鳥瞰図屏風として描くという大胆な発想です。京都盆地を東(右隻)と西(左隻)に分け、連続する多視点の鳥瞰図を合成し、歪みを調整して一枚の絵に仕上げるという驚くべき手法を駆使しています。洛中洛外図屏風の南北分割・左右対称の画面構成と、雲や霞といった伝統的な作法の導入も、この主題の描画を可能にしました。これによって中井家は、御土居の内を平面図で描くという定型の「洛中絵図」に対応する、精緻な「洛外図屏風」をつくりだすことに成功したのです。「洛中絵図」と組み合わせてみれば、「洛外図屏風」は壮大で美しい起こし絵なのだ!といってもよいでしょう。
中井家の「洛中絵図」は寛永年間、「洛外図屏風」は万治年間の成立です。したがってこの屏風は、江戸時代初めから「洛中絵図」制作で培われた書き絵図の技術と、京都全体に対する卓越した空間認識が結晶してできあがったのだともいえるのです。どうしたらこのような自然で美しい絵地図を描けるのかを知りたくて、下に示したような分布図(視点図)をつくってみました。
「洛外図屏風」描写の範囲と視点
(2017提出修士論文:「洛外図屏風」の制作と受容)
●(緑) 右隻
●(青) 左隻
●(赤) 五山の送り火
赤枠・・・・・御土居
黄色破線・・・視点
御土居の内が洛中、御土居の外が洛外です。御土居は「洛中絵図」に正確に描かれるので、「洛外図屏風」では省略されています。また、「屏風には御土居を描かない」という、伝統的な作法を踏襲しているとも考えられます。
◆書き絵図の変化と中井役所の成立
幕府御用大工中井家によって作成・管理された指図や絵図のうち、中井家に伝わったものが大阪くらしのミュージアムに寄託されている一群です。そして明治維新後に中井家から流出したものが、宮内庁書陵部、京都府立歴彩館、京都大学図書館をはじめ、個人のもとにたくさん伝来しています。
なにせ大きな絵図ですので、細かいところを観察するのはとてもむずかしいのですが、数少ないカラー写真版を眺めていると、中井家の書き絵図が寛文期(17世紀なかごろ)に大きく変化したことがうかがえます。それは、なんといっても着彩の鮮やかさです。17世紀初めに、貼り紙を使った色分けの方法が、絵図そのものを色絵具で描くようになるのです。私はこの変化が、「洛外図屏風」の制作と連動したものであるとみていますが、いかがでしょうか。
徳川幕府のもとで名だたる城の普請にあたり、秀忠・家光代の寺社復興を一手に握った中井家初代大和守正清。清水寺・知恩院・上賀茂神社・下鴨神社・石清水八幡宮・・・と、京都の世界遺産も中井家の活躍抜きには語れません。しかし家光没後、中井家三代正知の代になると、新規の公儀作事が一段落して、仕事が減少していきます。また入札請負方式の導入により作事も変化し、元禄6年(1693)には監理を主とする中井役所(寺町通り中井屋敷)として組織・業務が改められました。中井家の京都の書き絵図制作は、18世紀の中頃まで確認できます。
幕府御用大工中井家のつくった「洛中絵図」と「洛外図屏風」が、京都研究にとっていかに重要な資料であるか、またその建築指図や絵地図どんなにすばらしいか、下記の文献をご覧ください。ここでは、「洛外図屏風」の描画とよく似た「石清水八幡宮絵図」(中井家文書・公開中)の画像を、参考として紹介しておきましょう。
-主要参考文献-
・『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪くらしのミュージアム 2008年
・『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の建築指図』大阪くらしのミュージアム 2016年
・「総合資料館所蔵の中井家文書について」『資料館紀要』第10号 京都府立総合資料館 1981年
・宮内庁書陵部『洛中絵図』 吉川弘文館 1969年
・藤井譲治「17世紀京都の都市構造と武士の位置」『平安京-京都 都市図と都市構造』 京都大学出版会 2007年