◆三思一言◆◆◆2019.12.15
勤皇の志士・宇田淵の歌集『栗廼花』を読む
◆『栗廼花』250首
『栗廼花』は宇田淵(1827-1901)の遺言により、その嗣子・宇田豊四郎が淵の和歌を編集し、明治37年(1904)4月に自費出版したものです。序は高崎正風(明治36年11月付)、和歌清書は藤枝雅之(明治37年3月付)、後序は谷鉄臣(明治37年3月付)が携わりました。
高橋正風の序によれば、明治34年の春、「かりそめの病」に罹った淵は、病状の悪化を悟り、豊四郎を枕邊によびます。再起することはできないだろうから、これまで詠んだ和歌から則武雅正副・湯川信行の2人に選ばせ、高崎・谷に序・跋を請い、出版するようにと遺言します。知友に送り、子孫にも伝えたいという思いからでした。『栗廼花』に収められたのは、春歌38首・夏歌36首・秋歌30首・冬歌24首・雑歌122首の計250首で、遺言どおり御子孫には原本となった詠草ノート・短冊・色紙等とともに、『栗廼花』の草稿本・初稿本・刊本が大切に保存されています。
◆向陽会と西京華族研究会
関係人物を、簡単に紹介しましょう。高崎正風(1836-1912)はもと薩摩藩士で、明治4年に新政府に出仕。同22年に宮中顧問官、28年に枢密院顧問官を歴任しています。また明治21年から亡くなる28年まで御歌所長を勤め、明治天皇の歌を評しました。宇田淵と知り合ったのは明治10年の西南戦争の直後、向陽会発足の時で、以後、晩年までその活動を通して親密な関係にありました。藤枝雅之(1855-1922)は飛鳥井家の出身で、桂宮家淑子内親王祗候・京都宮殿勤番・歌会始奉行等を勤め、若いころからの付き合いです。谷鉄臣(1822-1905)はもと彦根藩士で、淵の漢詩と和歌の良き理解者といってよいでしょう。谷は後に、淵の漢詩集『静観亭遺稿』(明治44年上梓)にも跋を寄せています。また藤枝の奥書には、「おのれは向陽会よりのちなみも浅からねば」とあり、彼らは御歌所あるいは向陽会の活動を通じて、宇田淵と親交を結んだメンバーでした。
正風の序には、向陽会設立の経緯と宇田淵の「̪孜々勉々」とした活動がくわしく記されており、また宮内公文書館に所蔵される「御歌所日記」からも、東京宮内省御歌所の正風と西京華族研究会幹事の淵が、さかんに会務のやりとりをしていたことがわかります。ちょうどこのころの明治12年、明治天皇は群臣の肖像写真を座右に置こうと、皇族15方・諸官省の高等官ら4531名の肖像写真蒐集を命じます。このうち621名分には詠進歌が添えられました。明治維新に奔走し、天皇と新政府のもとで近代化を担う人々にとって、和歌を詠むことがいかに意味があったのかを、この「明治天皇御下命『人物写真帖』」39冊(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)からも知ることができるのです。
◆勤皇のこころ―辞世の歌ー
淵は死の直前、黒田天外のインタビューに応え、和歌への思いを吐露しています(『名家歴訪録』中)。淵の人生を重ねてみながら、『栗廼花』に収められた一つ一つの歌を味わいたいものです。ここでは、歌の背景がわかるものを選んで、少々解説を付しておきましょう。
・慶応四年東山道総督の参謀仰付られける時おのれが携へし薙刀を(雑歌)
きそ山の雪ふみわけしそのかみは 杖となしつる薙刀ぞこれ
淵が勤皇への道を歩み始めたのは、梁川星巖の門人として、その思想に大きな影響をうけたのがきっかけです。星巖死後に岩倉具視と出会い、岩倉の幽居宅で多くの同志と交流を深めます。慶応4年(1868)、若き岩倉具定・具経兄弟のお目付けとして東山道へ進軍したときの気持ちを、「いやこの時ほど愉快なことはありませなんだ」と懐古しています(『名家歴訪録』)
・主殿権助に任せられしおりをりに(雑歌)
けふよりはにしの都のとのもりと なりてぞまたん君が御幸を
淵は脚気を患い、やむをえず暇を乞い、岩倉具視家で執事のようなことをしていました。ふるさと西岡に帰り、再び医業をやろうと思っていたところ具視に推挙されて、明治2年に留守判官となり、同4年に桂宮家令を仰付けられます(『名家歴訪録』)。桂宮家令は明治天皇と岩倉具視による京都保存策の実務を担ったポストで、淵は持ち前の実直さで多くの職掌を兼務しました。明治16年に岩倉具視が没し、桂宮家廃絶の事務方を全うした明治19年、淵は宮内省主殿寮権助に就任したのでした。
・男山祭(雑歌)
いく度かわけのほりけむ男山 神の御幸をおくりむかへて
としごとに此御祭の奉行つかへまつりければかくはよめるなり
東京奠都後、宮廷文化の衰微を憂えた明治天皇と岩倉具視は、京都保存に対してさまざまな策を打ち出していきます。加茂祭と石清水祭の再興もその一つで、この歌は淵が勅使として男山に赴いた時の心情を詠んだものです。
・つかへをやめける時よめる(雑歌)
とし月の重荷おろしてけふよりは 野飼の牛のみこそやすけれ
明治28年3月1日~3日、平安神宮に奉安する桓武天皇の神璽が紫宸殿に安置されます。その守護を終えた7月、淵は主殿寮出張所長を辞職しました。京都府や宮内省の官吏としての長きにわたる重荷をおろし、ほっとした率直な気持ちが伝わります。このころ向陽会は山階宮晃親王が代表となり、淵は平安奠都千百年祭で来京した晃親王主催の歌会に赴いています。
・明治三十四年四月なかば重き病にかゝりこゝち死ぬべうおぼえけるをり かしこき仰せことうけたまはりて
死出のやまわけゆくみにもわすれぬぞ わが大君のめぐみなりけり
死期を悟った淵は枕辺に嗣子豊四郎をよび、自らの歌の出版を遺言して、この歌とともに生涯を終えました。
ー参考文献ー
・玉城玲子「地域文化の形成」『長岡京市史』本文編二 1997年
・日浅忠行「実相院門跡坊官宇田家とその一族」『乙訓文化遺産』 2016年
・新稲法子「宇田栗園と漢詩」『和漢比較文学』第57号 2016年
・宮内庁三の丸尚蔵館『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』 2013年
【参考】
宇田淵自筆六首和歌 軸装 百瀬ちどり所蔵
「枝折という題にて」を除く5首が、『栗廼花』に収載されている。
御歌所日記」明治17年7月20日 宮内庁宮内公文書館蔵 24403
西京華族八月分御月次御題詠進之短冊、通運ヲ以テ差出置候旨、宇田淵ヨリ七月十七日付ヲ以テ申来ル
「御歌所日記」明治11年10月31日 宮内庁宮内公文書館蔵 24399
一 高崎ニ等侍補ヨリ達ニ付、西京桂宮家令宇田淵へ向ヶ、本年月次御摺題五十枚以郵便相廻ス、庶務課林へ相渡ス