◆三思一言◆◆◆竹アラカルト⑵ 2021.05.20
◆「ついこの間」の原風景
ある老人会で、「洛外図屏風」の写真をもとに講座をした時、「そやそや、こんなんやったなあ~」と、参加者がなつかしそうに感想を漏らされました。この屏風は17世紀中ごろにつくられたものですが、昭和初めに生まれた地元の方にとって、竹藪で囲まれた在所(町・村)は「ついこの間」の原風景なのです。
今から60年余り前、昭和34年(1959)の長岡京市井ノ内と向日市鶏冠井の空中写真を掲載しました。集落や宅地・寺院の周りに、竹藪が点在している様子がわかるでしょう。両地区に伝わる明治5年(1872)の壬申地検地引絵図と対照してみると、竹藪のところに「四壁(シヘキ)」・「外藪」という地名が連なっています。
村や屋敷の廻りを竹藪が取り囲む様子を描いた、江戸時代の絵図もあります。革島氏(京都市西京区)は中世以来の有力な土豪で、その屋敷は堀や「土居藪」で囲まれていました。下久世村(京都市南区)の「御公用藪之絵図」は、黒塗りで示した藪地に赤い分筆線を入れ、丈量した長さを細かく書き入れています。
◆二条城の御蔵に納めた竹の年貢
「四壁」や「公用藪」とは、江戸時代に課せられていた竹の年貢地のことです。西岡の村々102ヵ村には「上ヶ竹」「上り竹」とよばれる竹の貢納義務が課せられ、京都代官の管轄のもとで、毎年決められた規格と量を二条城の竹蔵に納めなければなりませんでした(『京都御役所向大概覚書』)。これらは幕府や禁裏の普請、堤や土砂留などの土木工事、神事祭礼の竹矢来や牢屋敷の仕置き道具に至るまで幅広い御用に使われ、余剰は入札して民間に払い下げられていたのです。
したがって西岡地域の村々の古文書には、竹の年貢に関する史料がたくさん伝わっています。それらの中からピックアップして活字(pdf)にしましたので、興味のある方はご覧ください。写真で掲載したのは延宝7年(1679)に改められた奥海印寺村(長岡京市)「上ヶ竹藪帳」(検地帳)の冒頭です。「四壁」の小字、藪地の長さや面積、貢納の百姓名、竹の本数の記載があり、村全体では39筆、反別2反6畝16歩に合計4束半(1束は40本を縄でで括る)が課せられていたことがわかります。また、現物で納めるだけではなく、代銀の場合もありました。
慶長10年(1605)の「京都所司代板倉勝重上ヶ竹赦免状」は、奥海印寺村の寂照院と慈現庵(寂照院の塔頭)に課せられた4束を免除するという内容です。この時の赦免状は特別に大切にされたようで、同じようなものが各所の区有文書(村の共有文書)にたくさん伝わっています。
それにしても慶長10年とは、古い史料ですね。実はこの上ヶ竹制度は、中世以来の伝統的な制度を引き継いでいます。次回は戦国時代や太閤検地の史料を紹介して、町や村を囲んでいた竹藪への理解を、さらに深めていきましょう。
-参考文献-
・岩生成一監修『京都御役所向大概覚書』 清文堂書店 1973年
・玉城玲子「京都と周辺部における竹材の貢納と流通について」『向日市文化資料館研究紀要』1989年