三思一言 続・つれづれに長岡天満宮(34)  2021.03.27

霊元上皇と京極宮3代

霊元上皇と京極宮の相続

 霊元上皇は父後水尾院と同様、和歌や学芸への造詣が深く、即位の寛文3年(1663)から崩御の享保17年(1732)までの長きにわたり、宮廷歌壇を牽引しました。延宝2年(1674)に後水尾院から「三部抄及び伊勢物語」を、天和3年(1683)に後西院から「古今伝受」をうけています。

 一方八条宮家は、寛文2年に2代智忠親王(としただ)が没した後、穏仁親王(やすひと、後水尾天皇皇子)・長仁親王(おさひと・後西天皇皇子)・尚仁親王(ひさひと・後西天皇皇子)と、天皇家から養子が入りますが早世が続きました。元禄2年(1682)には霊元上皇の皇子・作宮(さくのみや)が後嗣となり、常磐井宮と称しましたが、またもやわずか4歳で亡くなります。その後を継いだのが6代文仁親王(あやひと・霊元天皇皇子)で、以後7代家仁親王(やかひと)、8代公仁親王(きんひと)の京極宮直系3代が、霊元上皇と共に江戸時代中期の宮廷歌壇で華々しく活躍したのです(宮家の系譜参照)

 霊元上皇の長岡天満宮造営

 霊元上皇は、作宮が八条宮家の後嗣となったのを機に、勝龍寺城を見晴ら小高い丘に建っていた開田御茶屋と、開田天満宮の再造営に乗り出します。

 まず元禄2年12月、天満宮の絵図を差し出させ、中小路宗信を召して旧記等を尋ねました。翌年からは社殿の造営が始まり、「天満宮」の勅額、松・梅の和歌額(拝殿奉納8枚セット)、石鳥居2基、金灯籠を寄進。夭逝した作宮に代わって、同じく霊元上皇の皇子・文仁親王が宮家に入った元禄9年には、年貢のうち50石が社用米として下げ渡されることになります。以後この中から専任の祝詞師を任命し、地元開田村から宮総代・宮仲間を定め、年中行事や掃除役などを担当させるようにしたのです。

 この年には御茶屋の建物を、丘の上から大池のほとりに移し、大規模な修理と増築を加えました。御茶屋・社殿・連歌堂・詰所・神職宅などを一体とした境内を整備し、定日に家司を代参させ、交代で長岡掛りの家来を派遣し、神事や管理を監督したのです。このような一連の大改革を経て、元禄15年(1702)の菅原道真800年遠忌の大萬灯祭を迎えたのでした。「開田天満宮」が「長岡天満宮」とよばれるようになったのは、このころからです。「長岡」は、いうまでもなく「長岡幽斎(藤孝)」と八条宮智仁親王の縁にちなむもので、智仁→後水尾天皇→後西天皇と続く御所伝授を受け継いだ霊元上皇時代ならではの発想といえます。

◆家仁親王と公仁親王の長岡天満宮法楽和歌

 第7代家仁親王は、文仁天皇の第一皇子として元禄16年に誕生。宝永8年(1711)に8歳で宮家を相続し、初代智仁親王の業績に傾倒して多くの和歌を詠み、霊元上皇周辺や幅広い文化人と交流して家運の興隆をもたらしました。宮家の洛中屋敷には度々霊元上皇の御成があり、修学院の茶屋(修学院離宮)への御幸にも家仁親王が招かれるなど、親密な関係を結んでいたのです。下桂の茶屋(桂離宮)の月波楼に掛かる「歌月」の扁額は、霊元上皇宸筆と伝えられていて、当時のようすが感じられるでしょう。

 下の写真は、家仁親王が有栖川職仁親王・伏見宮貞建親王らと詠んだ「長岡天満宮法楽和歌」(元文元年12月2日詠)です。最後は「社頭祝」の題で、「宮井なをまゝにさかえて長岡のなかくも神のまもりなさなむ」と、家仁親王の「長岡」への想いで結ばれています。

 その家仁親王の皇子、公仁親王は宝暦4年(1754)に宮家を相続。父と共に歌会に参加し、数多くの和歌を詠みました。幼名は上総宮で、親王宣下を受けた延享2年(1745)に長岡天満宮に参詣し、また宮家相続直前の宝暦2年と宝暦4年にも、長岡天満宮を参詣しています(桂宮日記)。明和4年(1767)の法楽和歌5首も、和歌の家の栄を長岡の神に祈るという、公仁親王の想いが如実に詠み込まれているのです。

ー参考文献ー

・西和夫『近世の数寄空間-洛中の屋敷、洛外の茶屋-』 中央公論美術出版 1988年

・『旧桂宮家の美術-雅と華麗-』 宮内庁三の丸尚蔵館 1996年

・『長岡天満宮資料調査報告書 美術・中世編』 長岡京市教育委員会 2012年

 

長岡社頭(開田御茶屋跡)