◆三思一言◆◆◆ 続・つれづれに長岡天満宮(33) 2021.03.04
◆八条宮智仁親王から後水尾天皇への古今伝授
後水尾天皇は後陽成天皇の第3皇子。智仁親王とは叔父・甥の関係です。寛永2年(1625)11月9日、禁裏「御会之間(上壇八畳敷)」において、八条宮智仁親王(47歳)から後水尾天皇(30歳)への「古今伝授」(「古今和歌集」の解釈を秘伝として伝えること)が開始されました。
この時の経過は、智仁親王が記した『講釈次第』からくわしく知ることができます。ここではその最終に行われた、12月14日の「切紙伝授」(末尾に指図あり)のようすに注目しましょう。
座敷のしつらえは、「とこ」に柿本人麻呂像を懸け、「広ふた(蓋)」に置いた「御鏡、水精ノ玉、御太刀」と、洗米を盛った土器一対、酒を入れた土器一対、そしてその前に香炉(沈焼)が白机の上に並べられました。天井には錦が張られ、各々の座に「ぬの一端」を敷いて座り、「蔦の細道」という題の文台の上で切紙18通と6通の伝授が行われたのです。この時の「座敷模様」は、智仁親王が幽斎から直々に伝えられた儀式を再現しており、後々まで御所に伝わる「古今伝授」の規範となりました。
◆2代智忠親王と後水尾上皇の御茶屋造営
下桂の地は平安時代に藤原道長の別荘「桂家」が営まれ、『源氏物語(松風の巻)』に登場する「桂殿」のモデルとされていました。智仁親王はこの由緒ある地に、元和元年(1615)より別業の造営に着手します。翌年には書院ができあがり、後陽成院の女御(近衛前子)の御成りがありました。寛永元年(1624)には庭園も完成し、その素晴らしさは相国寺・昕叔顕晫の日記や南禅寺・以心崇伝の「桂亭記」扁額などに記されています。先に述べた寛永2年の後水尾天皇への古今伝授は、このころのことでした。
しかし寛永6年、智仁親王が急逝します。利用されなくなった別業はしばらく荒廃しますが、二代・智忠親王は父の教養や文化を引き継ぎ、新たな展開を図ります。まず、寛永15年には所領の一つ・開田村に大きなため池(現在の八条ヶ池)を造営し、京都の今出川屋敷から父と細川幽斎との縁深い学問所を移します。そこは幽斎ゆかりの古今伝授の故地・勝龍寺城跡を望む小高い丘で、以後天満宮の社殿共々「開田御茶屋」として大切に維持されていくことになるのです。
そして寛永18年ごろからは、下桂御茶屋の書院増築と庭園の再整備に着手し、慶安2年(1649)ごろにはいったん出来上がったようです。父から受け継いだ八条宮家と後水尾上皇との縁は深く、明暦4年(1658)3月には、上皇が下桂御茶屋へお忍で行幸しています。このころ後水尾上皇は、修学院に新しい御茶屋の造営を進めていました。寛文2年(1662)4月、智仁親王は完成したばかりの修学院下茶屋・上茶屋に招かれ、壮大な景色を目にしたのです。
智忠親王は、あらためて後水尾上皇の行幸を仰ごうと、さらなる御殿の増築と庭園の改造を企図しますが、その年の7月7日、突然亡くなります。遺志を継いだのは御水尾上皇の皇子・穏仁親王。思いがけない不幸にもかかわらず造営が続けられ、翌寛文3年3月、完成した下桂御茶屋に上皇の御幸がなりました。
下桂御茶屋は明治19年(1886)、桂宮家(八条宮→常磐井宮→京極宮→桂宮と改称)廃絶により、宮内省に移管されて「桂離宮」となり、現在に至っています。古書院・中書院・楽器の間・新御殿、庭園に点在する松琴亭・賞花亭・笑意軒・月波楼は、後水尾上皇の行幸に伴い整備された姿が受け継がれているのです。これら優美で閑雅な建物群に交じり、池中の小島に宝形造・本瓦葺のお堂があります。智忠親王が持仏堂として建立した「園林堂」で、正面の額は後水尾上皇の宸筆。かつては堂内に智仁親王を初め代々の位牌・尊像と、細川幽斎の肖像が納められていました。幽斎→八条宮智仁親王→御水尾上皇の古今伝授の縁を象徴しているかのような建物です。
ー参考文献ー
・小高道子「御所伝受の成立について-智仁親王から後水尾天皇への古今伝受-」『近世文芸』36 1982年
・海野圭介「確立期の御所伝授と和歌の家-幽斎相伝の典籍・文書類の伝領と禁裏古今伝受資料の作成をめぐって-」『皇統迭立と文学形成』 大阪大学古代中世文学研究会編 和泉書院 2009年
・斎藤英俊 『新装版・桂離宮』 草思社 2012年
桂離宮
修学院離宮