◆三思一言◆◆◆ 2023年09月30日
喜明の死と「両山大切」の宣言
「双子堂」て何?。桂昌院によって造られた同時造営、同一規模・同一仕様の金蔵寺と善峯寺の本堂(観音堂)のことです。西山の二筋の尾根に整然と建ち並ぶその姿は、前代未聞、そして後の世にも類例はないといってよいでしょう。その歴史的な内容については、すでに概要を紹介(2023.08.29)しましたが、善峯寺さんから写真掲載のご了解をいただきましたので、今回はその根本史料の「本庄宗資定書」を、あらためて見てみましょう。
本庄宗資は桂昌院の義弟。桂昌院の意向を受けて金蔵寺・善峯寺造営の要となっていました。両寺の造営は姉・弟の父と母、そして縁故の本庄一族を弔い、菩提寺として中興を図るのが目的ですから、その造営は「両山大切」のとおり、二人の強い意思をもって進められました。
桂昌院の要請により、義兄の喜明が金蔵寺の庵室に入ったのは万治2年(1659)のこと。以来善峯寺との山中を往来して本庄一族の供養を続けていましたが、貞享3年(1686)2月1日に亡くなります。喜明を中興の祖とする桂昌院の仰せを伝える「本庄宗資定書」が出されたのは、その直後の3月29日のことでした。
当時、将軍の母として江戸城に住み、「三の丸殿」とよばれていた桂昌院は、このころから金蔵寺の仁王門・経堂、善峯寺の梵鐘・鐘楼と、すぐさま造替に着手します。そしていよいよ元禄4年12月に、中興の軸となる双子堂(両山の本堂)造営の仰せがあり、元禄5年~6年にかけて急ピッチで工事が進められました。
明治期の「金蔵寺境内見取図」(京都府立京都学・歴彩館蔵)
華々しい堂舎の造替と共に大事なことは、本庄一族の墓所を整備することでした。貞享3年5月16日、桂昌院の指示によって本庄家一門の石塔が、さっそく石屋に注文されます。元禄2年(1689)9月17日にはこれも桂昌院の命で、義理の母栄光院(父・宗正の先妻)と実母・照高院の石塔が立てられました(河村隆永日記抜書)。
金蔵寺には、本庄家墓所の石塔銘を書き上げた記録が伝わっていて(京都市歴史資料館写真帳)、二人の母のほかに浄運院(本庄道芳・桂昌院の義兄)・安養院(本庄宗資)・霊照院(本庄宗資妻)・泰岳院(山科宗賀・桂昌院の姉の夫)・瑞光院(菊・桂昌院の姉)など、桂昌院ファミリーの名が列記されています。
明治28年の「古社寺調査書」(乙訓郡役所文書)に綴じられている「金蔵寺境内見取図」によれば、本庄一族の墓所は、仁王門右手前の山中にありました。この図には本堂(杮葺き)の奥に喜明上人の像や桂昌院の廟所をはじめ、仁王門・鐘楼・開山堂(護摩堂)・鎮守の向日明神故地、江戸時代の坊舎跡など、険しい山麓に点在する全体のようすがリアルに描かれています。子細にみていくと、桂昌院と本庄一族にゆかりの深い金蔵寺のイメージがありありと浮かんできて、興味が尽きない好資料です。
ー参考文献ー
・城市智幸・永井規男「金蔵寺・善峯寺の双子堂の同時造営について-桂昌院とその建築 その1-」平成27年度日本建築学会
近畿支部研究発表
・湯本文彦「京都府寺誌稿」のうち善峯寺・金蔵寺 京都府立京都学・歴彩館蔵
・京都府立丹後郷土資料館『「玉の輿」大名家の栄光と苦悩』 2021年
善峯寺鐘楼
善峯寺本堂
乙訓郡役所文書№5「古社寺調査書」寺ノ分より「金蔵寺境内之見取図」 京都府立京都学・歴彩館蔵
金蔵寺仁王門
金蔵寺開山堂
金蔵寺本堂