◆三思一言◆◆◆ 2021年09月19日
◆屏風の「下張り」文書から驚きの発見
「下張り」とは屏風や襖をつくる時、または修復したりする時、その下地に幾層にも紙を貼り合わせて土台を整えたり、形を補強するものです。昔は紙が貴重だったため、不用になった反故紙が使われることが多く、これらを丁寧に剥がすことで、思いもよらぬ貴重な史料が発見されることがあります。
織田信長が安土城を描いた屏風を、巡察使ヴァリアーノを通じローマ教皇に献上したように、戦国時代にはたくさんの屏風がヨーロッパに贈られました。なかには本体が失われ、現在下張り文書だけが伝わっている場合があり、ポルトガルのエヴォラ市図書館と国立リスボン図書館の下張り文書はその代表的な例です。
これらは、明治に村上直次郎、昭和に松田毅一らによって発見・研究が進められ、さらに昭和58年に中村質が調査を行い、二つの下張り文書群の関係を明らかにしました。要点は①エヴォラ屏風文書とリスボン屏風文書は、一つの屏風の下張りであること、②その年次は天正13年(1585)を中心に前後のせいぜい2、3年であること、③これらが秀吉の右筆・奏者・代官で「シモン」の霊名をもつ安威了佐(五左衛門)家から出た可能性が大きいことの3点です。
二つの断簡文書群をあわせると接合できるものがあり、そのなかの一つに寂照院と光明寺の連名による言上書がありました。文末に掲げた図に示したとおり、戦国時代の生々しい文書が奇跡的によみがえったのです。
◆「ながおかの京より今のたいらの京へ」
まず初めに「にしのおかかいじ(西岡海印寺)じやくせうゐん(寂照院)/くわうミやうじ(光明寺)」、「乍恐(おそれながら)申あけ候」とあり、寂照院と光明寺連名の言上書であることがわかります。この2寺は宗派が違いますが、山続きでつながっており、領地も錯綜して混在していました。
趣旨はそれぞれの由緒を述べ、秀吉の治世を「いつれの寺社をも育てられ天下たいへいのミ世と諸人あふき(仰ぎ)たてまつり候」としたうえで、存続への援助を求めるという内容です。天正13年9月、京都周辺では「ミんぶきゃうほうゐん(民部卿法印=京都所司代前田玄以)」のもとで太閤検地が本格的に始まったところ。「此いぜんたびたび御礼をも申しあけ(上)候事」とは検地の奉行人に礼銭・品物を贈り、検地が有利になるように取り計らってきており、その窓口が代官の安威了佐だったのです。
この復元された言上書は、西岡地域における太閤検地を知るとても貴重なもので、また主張の根拠としてそれぞれ述べている由緒についても注目されます。それに加えて特に興味深いのが「ながおかのきゃうより今のたいらのきや(欠)うつされ候ヘハらくちう(洛中)同前(同然)」という文言です。秀吉政権への嘆願の口実に「ここは平安京の前の都だったのだから、洛中と同じように助力してほしい」と、「長岡京」を引き合いに出しているのには驚きます。
-参考文献-
・村上直二郎「エボラの大司教と金屏風」『日葡通交論叢』1943年
・松田毅一・海老沢有道『エヴォラ屏風文書の研究』 ナツメ社 1963年
・中村質「豊臣政権とキリシタン-リスボンの日本屏風文書を中心に-」『近世長崎貿易史の研究』吉川弘文館 1988年
・『長岡京市史』資料編二 1992年 (松田毅一提供の断簡写真を接合復元して図版を掲載)
・『エヴォラ屏風の世界』 「エヴォラ屏風」修復保存・出版実行委員会 かまくら春秋社 2000年
・百瀬ちどり「海を渡った言上書」『西山学苑研究紀要』第9号 京都西山短期大学 2014年
寂照院と光明寺の連名言上書
寂照院仁王門
◆三思一言◆◆◆ 2021年09月19日
光明寺(法然上人荼毘所跡)