◆三思一言◆◆◆ 2023年07月31日
◆乙訓寺の十一面観音が重要文化財に
2022年11月18日、国の文化審議会で、乙訓寺の十一面観音立像が重要文化財に指定されました。長岡京市指定→京都府の暫定登録→国の指定へと、「文化財」としての立場での立身出世。2023年2月に、東京国立博物館で行われたお披露目展示では、お迎えパネルにもなって晴れ姿を披露しました。
この像はヒノキの寄木造り、高さは等身大の180㎝、錫杖を持つ長谷寺式十一面観音。評価の決め手は、令和3年度の保存修理の際に像内より大量の結縁交名(紙片)が発見され、文永5年(1268)造立の「一日造立仏」だということが判明したことです。交名には「文永五年七月十七日」・「十八日」・「一日造立供養観音」などの文字がありました。
「一日造立仏」は、仏像の制作を一日のうちに造立供養まで行うもので、鎌倉時代に興福寺で盛んに行われたことが知られています。目的は主として祈雨や疫病消除で、尊格は春日本地仏である不空羂索観音、薬師如来、十一面観音です。交名には「龍花院」(興福寺子院)・「甲斐塚」など興福寺にゆかりのある地名がみられ、興福寺の工房や仏師によりつくられたことが確実なのです。
◆隆光制作の乙訓寺縁起
この十一面観音の修理の時にわかったもう一つ重要なことが、本体背面に朱漆銘があり、元禄8年(1695)に秋篠寺から移されたことが証明されことです。つまり鎌倉時代に興福寺で造られた十一面観音は、ある時(いつかはわかりませんが)秋篠寺に移され、元禄8年に隆光が乙訓寺を再興した際、またまた奈良からこの地に移されたことになります。
乙訓寺には仏像と什物を書き上げた元禄8年の覚えが伝わっており、「此尊は大和秋篠寺本尊たるといえども之を悃(懇)望せしめ、後光・台座之を新造し、大師堂に之を奉安す」との記載がありますので、隆光が意図的に秋篠寺から移したことは明らかです。
それではなぜ十一面観音が必要だったのでしょうか。再興のさいに隆光がつくった乙訓寺縁起をみれば、それは一目瞭然です。乙訓寺には立派な漢文調の巻物縁起もありますが、ここでは翌年の開帳の時に配られた略縁起を紹介しましょう。隆光は乙訓寺の創建を推古天皇の代として、本尊は聖徳大師が刻んだ十一面観音だったとしています。もちろん考古学的にも、歴史学的にも乙訓寺は白鳳時代創建なのですが、奈良出身の隆光の真剣な意識が反映されているとみれば、興味深いものがあります。つまり自ら制作した縁起を権威付けるために、どうしても十一面観音を乙訓寺本堂に安置する必要があったものと思われます。
隆光は秋篠寺に近い超昇寺跡付近(奈良市二条町)出身で(奈文研ブログ2018「平城から平成まで-隆光さんの墓石」の向こうに)、唐招提寺や長谷寺(新義真言宗総本山)で修業しました。のち関東の筑波山知足院・江戸護持院の高僧となり、乙訓寺の再興を実現した元禄8年には、新義真言宗の僧侶として初めて大僧正に就任。秋篠寺から長谷寺式の十一面観音を入手する力量は十分にあったことでしょう。しかし、隆光の真意は空海ゆかりの由緒がありながら南禅寺末寺となっていた乙訓寺を、再び真言宗(豊山派)の道場として再興することですから、乙訓寺の本尊に崇めたのは、それまで安置されていた空海の像です。これを首は八幡宮、体躯は弘法大師、すなわち「合躰大師」であるとして、さかんにその霊験を強調したのです。
真言宗寺院への再生という点で、同様の例として室生寺があげられます。この古刹は、長い間興福寺の末寺となっていましたが、隆光は元禄7年に管轄するようになり、桂昌院から2000両もの寄進をうけて真言宗(豊山派)寺院として再興したのです。
乙訓寺や室生寺の真言宗寺院としての再生は、まさに綱吉や桂昌院のもとで絶頂期にあった隆光の活動を良く表しています。興福寺から秋篠寺へ、秋篠寺から乙訓寺へと移った長谷寺式十一面の姿は、このころの時代のうねりや隆光の人物像を映し出す一つの事例としても、鑑賞してはいかがでしょうか。
-参考文献-
・『長岡京市史』資料編二 1992年 ・『長岡京市史』建築・美術編 1994年
・文化庁『令和3~5年 新指定国宝・重要文化財 図録』 2023年
・文化丁『月刊文化財』712号 2023年
洛外社寺絵巻 寛延元年 松室筑前図
京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
宇治から大山崎まで、洛外の名所や街道の風景を描いた名所絵巻の下図。元禄年間に「合躰大師」を本尊として再興された後、乙訓寺が名所として認識されるようになったことを示す初期の事例。方形造の本堂や八幡宮が描かれ、乙訓寺の特徴が表現されています。
国宝・秋篠寺本堂(鎌倉時代)
秋篠寺金堂跡