◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(29) 2024.10.05
◆秀吉の起請文と妙喜庵での茶湯
天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」。丹後・宮津城で事を知った藤孝は、家督を忠興に譲り、剃髪して幽斎と名を改めます。そして13日の「山崎の合戦」で明智光秀が破れ、羽柴秀吉が天下人の座へ・・・。
騒乱の余韻が残る7月7日、幽斎は美濃より上洛、9日には忠興も上洛します。11日には六条本国寺に陣取った秀吉を、洛中洛外の公家らが「鼓騒(こそう)」して(騒ぎたてて)挨拶に訪れていますので(『兼見卿記』第二)、幽斎・忠興も秀吉と面会したのでしょう。この時、秀吉が二人に宛て渡したのが、自らの血判・裏花押をもって誓った起請文(天正10年7月11日、細川家文書)。そこで秀吉が述べているのは、①「この度信長の『不慮(死)』に際しての比類のないお覚悟を頼もしく思います。これからも入魂にお付き合いしたく、表裏なく御身上(幽斎・忠興の立場)を守ります」、②「知っていることはすべて、心底あなた方のためになるよう意見します」、③「気に入った者がいれば、お互いじかに話して決めましょう」の3ヵ条で、生々しい文書の体裁から幽斎への信頼のほどが伝わってきます(この時秀吉は46歳、幽斎は49歳)。
そして天正10年10月15日、蓮台野において盛大に信長の葬儀が執り行われました。秀吉はこのころ度々山崎城へ逗留しており、10月20日の早朝、幽斎は秀吉との茶湯のため、前日に口切りした茶を持参して妙喜庵へ、さらに11月12日にも山崎に向かっています。しかし秀吉がここを使ったのは1年余りで、天正12年3月末、山崎城の天主は取り壊され(『兼見卿記』第二)、秀吉の拠点は大坂城へ移りました。
◆秀吉、幽斎へ3000石の知行
天正14年(1586)4月1日、幽斎は秀吉から勝龍寺・神足・上植野・石見(すべて乙訓郡)のうちから合計3000石の知行を与えられ(細川家文書)、丹後-京-大坂間を上洛往来する便宜を得ます(『兼見卿記』天正14年12月9日条)。この間秀吉は、天正13年7月に関白となり、天正14年9月に正親町天皇から「豊臣」の姓を受けたので、幽斎の教養と人脈がますます必要とされるようになったのです。
天正15年2月29日には、完成した大坂城本丸の披露があり、京の公家衆ご一行を招いて、秀吉自らが豪華絢爛の天主を案内。事前に催された連歌会に出座した幽斎は、吉田兼見と合流し、3月1日未明、大軍を率いて九州へ向け出陣する秀吉を見送ります。そしてその日の午後、森口(守口)までは船で、ここからは乗馬で八幡まで帰路をとり、八幡で日が暮れたので二人は勝龍寺で一泊しました(『兼見卿記』天正15年2月28日~3月2日条)。
◆「剣をばここに納めよ箱崎の」
大坂で秀吉の九州出陣を見送った後の4月21日、幽斎は隠居城の田辺から九州へ向け船出します。『九州道の記』は、この日から7月23日の難波津到着までの3ヵ月余りを、幽斎自身がまとめた吟詠紀行日記です(善本が細川家に伝わるほか、江戸時代には出版されて一般に)。
幽斎はその冒頭で「今年天正十五、三月のはじめ、秀吉公が九州の大友氏と島津氏の私的な争いを制止しようと出発された。息子の忠興と興元の二人が出陣しているので、隠居の私までもがお供することもないのだが、遠くでの激しい戦さを思うと、ただ無為に過ごすのも恐れ多い気がして」と、この旅の目的を端的に述べています。とはいえ、全体は未見の土地へのあこがれ、和歌にちなむ名所旧跡にふれるよろこび、行く先々での同好者との交流など、風情・有情の吟詠遊山が基調。あえて政治的なことを書かない意図があるやとも推察されますが、幽斎の溢れる才能や温厚な人柄が、如実に発揮されています。
4月に丹後を出発し、5月には出雲・石見の海岸をたどり、周防の陸路を経て門司・小倉、そこから筑前の名所旧跡を歴訪。この間5月8日に秀吉と島津氏の和平がなり、秀吉が筑前筥崎に移って、6月7日の論功行賞と九州国分けが行われました。幽斎と秀吉が会ったのは翌6月8日、場所は筥崎の利休宿所。しばらく対談の後、さっそく連歌を一折と所望があり、幽斎の発句「神代にも越えつつ涼し松の風(筥崎の松に秀吉を寓して偉業を称賛)」に対し、秀吉は「雲間に遠き夏の夜の月」。また秀吉御在所の筥崎八幡宮へ参上のおりには、「松(秀吉の雅号)」に寄せた祝言の歌を所望され、「剣をばここに納めよ箱崎の松の千とせも君が代の友」(合戦をやめて剣をここに納めなさい。筥崎宮千年の寿松も、わが君の代の友であるのだから)と一首。
◆「難波津の道に引かれて遥かなる」
天正15年7月4日、秀吉は小倉から大坂へ向け帰っていきました。幽斎も1月ほどの筥崎滞在を引き上げ、周防山口見物、安芸厳島見物と道草をしながら瀬戸内海を漕ぎ行き、播磨の室津・姫路を見ながら古典・和歌の名所中の名所、高砂の浦・明石の渡り・須磨の浦・生田の森に想いを寄せて、吟詠三昧の舟旅。
7月23日、難波に着いた幽斎は、「思い返すと限りなく広い日本の半分をめぐってきたのだなあ」と感慨にひたり、「難波津の道(和歌へ惹かれるこころ)に引かれてはるかなる豊蘆原(日本国)も巡り来にけり」と、吟詠紀行日記を締めくくっています。
この九州での陣中見舞いは、「つかず、離れず」の、秀吉と幽斎の安定した関係をよく示すものといえるでしょう。それからは聚楽第建設、大仏建立、北野大茶会、お土居建設、伏見築城、醍醐の花見と、秀吉は京の都で前代未聞のやりたい放題。幽斎は大変貌の「浮世」の渦中に身を委ねながら、丹後ー京ー大坂を自在に往来し、「自分流」を貫いています。千利休や豊臣秀長など、秀吉によって失脚させられ、有能でありながら無残な最期をとげた人物との違いは何だろうか?。これはまだよくわかりませんが、史料を読みながら、京の「その時代」の遺跡を訪ね歩いてみましたので、興味のある方はご覧ください。
-参考文献-
・伊藤敬校注・訳「九州道の記」 『新編古典文学全集』48中世日記紀行集 小学館 1994年
・鶴崎裕雄「細川幽斎の紀行-もう一つの紀行紹介への布石-」『細川幽斎 戦塵のなかの文芸』 笠間書院 2010年
豊国神社唐門(伝伏見城遺構)
豊国神社石塁(方広寺遺構)
方広寺南大門
お土居(京都市北区紫野2016)
お土居(京都市北区紫野2016)
お土居現地説明会(京都市埋蔵文化財研究所2016)
醍醐寺三宝院唐門
醍醐寺三宝院表書院
醍醐寺三宝院藤戸石
豊国廟鳥居
豊国廟中門
豊国廟五輪塔(明治30年、伊藤忠太設計)
高津・柿本神社(島根県益田市)
天正15年(1587)5月7日、浜田から出航した幽斎は、高津(益田市)の沖から柿本神社方面を見やり、「移りゆく世々は経ぬれど朽ちもせぬ名こそ高津の松の言の葉」と一首。
宮島・厳島神社(広島県廿日市市)
7月11日、潮にひかれて岩国沖をすぎ、やがて厳島の大鳥居を眼前にして「遠島の下つ岩根の宮柱波の上よりたつかぞと見る」と一首。15日までここに逗留して連歌などに出座し、当地の人々と交流。