◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(23) 2023.01.23
◆細川家に伝わる織田信長発給文書
細川家伝来「信長文書」59通の大半は、「藤孝公忠興公御感状等」の題箋がある桐箱に納められていました(一部別置)。このうち山城勝龍寺城時代(元亀4~天正8年)の文書は37通と、全体の約6割。藤孝単独宛てのものだけではなく、与一郎(忠興)や明智光秀宛、そして彼らとの連名の文書も含まれます。
59通のうち「天下布武」の朱印状は16通、黒印状は40通です。細川家の「信長文書」を綿密に分析された稲葉継陽先生によると。軍事上の重要任務(義務)を付与する場合には朱印を、藤孝からの戦況報告や首注文注進などへの返答や、贈り物に対する返礼などのは黒印が用いられる傾向を指摘されています。
信長のもとで西岡の一職支配と勝龍寺城を与えられた藤孝は、自国の土豪・地侍と対峙する一方、信長の軍事動員に呼応して河内・伊勢・越前・紀州・摂津・播磨へと、厳しい戦に出陣。また岐阜、続いて安土を本拠として、東にも戦線を抱える信長に対し、常に細心の注意で西国の情報を送り、要員・物資の調達や家臣らとの連絡調整等を忠実に実行。これらを伝える細川家の「信長文書」からは、勝龍寺城主藤孝が信長の「天下布武」の要となって活躍する様子を、如実に読み取ることができるのです。
◆「信長文書」と『信長記』
「信長文書」の歴史的背景を考えるうえで、参考となるのが『信長記』。これは、織田信長に近侍する太田牛一が記した全15巻(永禄11年~天正10年)の記録です。金子拓先生は数多の関連資料と太田牛一の人物像を研究され、「歴史叙述」とよぶのがふさわしいのではないかと述べておられます。
ここでは慶長15年(1610)の自筆本として名高い池田本(岡山大学附属図書館古文献ギャラリー)から、天正4年(1576)4月14日の石山本願寺攻め、天正5年10月1日の片岡城攻め、天正7年4月29日の伊丹(有岡)城攻めの部分と、それに関連する細川家の「信長文書」をならべて読んでみました。
石山本願寺攻めでは、死闘が繰り広げられる一向一揆と、明智光秀との共戦を掲げました。松永久秀を敵とする大和片山城攻めでは、細川父子の手柄とそれを褒める信長の感状が印象的です。荒木村重を敵とする伊丹城攻めでは、付城の番にあたる藤孝や忠興に対し、信長が細やかな配慮をしている様子が滲み出ています(くわしくは下の図版に示しました)。
◆信長と家臣長岡藤孝
2010年は、細川幽斎の没後400年で、東京・京都・九州を巡回する大規模な特別展、永青文庫研究センターによる細川家文書の学術書の刊行、一般への周知を高める記念シンポジウムや講演会が行われました。
この一環として企画・編集された熊本日日新聞社の『幽斎と信長』という本は、信長の書状から武将としての幽斎の人物像を示そうとする内容です。細川護熙(幽斎の子孫)氏の巻頭文のなかに、「まだ父が存命だの頃、熊本・立田山麓の菩提寺だった秦勝寺跡に建てられた歴代の先祖を祀った細川家の御祠堂の屋根が傷み、それまで開扉を禁じられていた扉を開けたときのこと、思いもかけず先祖の位牌の真ん中に信長の木彫りがおかれていて、私たちはびっくりした。歴代の人たちがそこまで信長の恩義を深く感じ、長い間大切に奉じてきたのかというそういう感慨だった」という一節があります。
確かに59通もの信長文書を今に伝えるという、他の武将家にはない類まれな事実は、信長と細川家の深い絆をおいては語れません。信長と藤孝は、天文3年生まれの同い年ですが、生まれも、育ちも全く異なります。室町幕府将軍の奉公衆という血筋にして、武勇にも学芸にも優れていた藤孝は、信長にとって他の家臣とは異なる、格別な精神的存在だったのではないでしょうか。また書状の一つ一つの文言から溢れる信長の言葉(心情)からは、藤孝や忠興にとっても信長の存在が如何に大きかったのかと、あらためて思いをめぐらすことができるのです。
-参考文献-
・奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上、下、補遺・索引 吉川弘文館 1988年
・金子拓『織田信長という歴史 「信長記」の彼方へ』勉誠出版 2009年
・永青文庫叢書『細川家文書』中世編 熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 2010年
・『幽斎と信長 細川家古文書から』 熊本日日新聞社 2011年
・森正人・稲葉継陽編『細川家の歴史資料と書籍』 吉川弘文館 2013年