◆三思一言◆◆◆ 勝龍寺城れきし余話(22) 2022.10.31
◆若き日の藤孝 -足利将軍と共に流浪-
藤孝は天文3年(1538)、三淵晴員と清原宣賢女との間に出生。
幼くして細川高久・晴広父子の養子として育てられました。双方とも足利将軍家・奉公衆の家柄で、藤孝も少年のころから義藤(義輝)に仕えます。しかし、時は三好長慶や細川氏の争いの渦中で、将軍は戦況が悪化すれば近江へ逃亡。藤孝も度重なる戦に明け暮れ、天文22年からの5年間は、近江の朽木で逃亡生活を過ごしました。
永禄元年(1558)12月、将軍義輝は長慶と和睦して京へ帰還。このころ藤孝は20代後半。他の奉公衆らと共に将軍の御供や取次として立ち振る舞う若々しい姿を『言継卿記』から窺え、また義輝の三好義長(慶興)亭へ御成へ同行し(永禄4年「三好筑前守義長朝臣亭江御成記」)、薩摩相良氏へ将軍の諱「義」字付与について副状を発給する(『大日本古文書』相良家文書)など、義輝側近としての活動をみることができます。永禄8年4月5日には、藤孝邸への義輝御成もありました(言継卿記)。
ところがその直後の5月19日、義輝は三好・松永勢に攻められて自刃。7月28日、藤孝や和田惟政らは興福寺一乗院で幽閉されていた覚慶を脱出させ、近江甲賀の和田(惟政)館に移ります。以後覚慶は上杉景虎ら諸大名に次々と書状を送り、支援を要請。冒頭に掲げた3ヵ条の禁制(永禄8年10月11日)は、このような動きの最中に、覚慶の側近である飯川山城入道信堅・細川兵部大夫藤孝・一色式部少輔藤長の3名連署で東寺に発給したもの(東寺百合文書)で、これと同文・同日付の禁制は大徳寺にも伝わっています(『大日本古文書』大徳寺文書之一)。
このころの藤孝の立場を良く示しているのが、永禄8年10月28日付の島津氏へ宛てた副状。「このたび公儀(将軍義輝)が襲撃されたことは先代未聞のことで、一乗院殿(義秋→義昭)が甲賀和田へ御退座。近国へ出陣して急度御入洛されるので、忠功を尽くすようにとの仰せです」という内容(『大日本古文書』島津家文書之一)です。また藤孝は、永禄8年11月21日、覚慶が和田館から近江矢島に移った直後の12月5日付で「御入洛の儀について御内書を下され謹んでお請けします。御供奉のことは無二の覚悟で、他の側近に執り成してください」との信長からの書状を取っています(『織田信長文書の研究』上巻)。先代未聞の幕府存亡の危機のなか、島津や織田ら大名へ支援を取り次ぐ藤孝の働きぶりがわかります。
◆藤孝、『信長』に就いて大名に転身
永禄9年(1565)11月、義秋(義昭)は越前一乗谷へ移り上洛への画策を続けますが、事態はなかなか進展しません。ようやく義昭と信長が京へと動いたのは永禄11年7月のことで、義昭は美濃立正寺から近江桑実寺、そして舟にて三井寺へ(信長公記)。9月23日には藤孝と和田惟政が大将として一万余りの軍勢で上洛(多聞院日記)し、25日には義昭は清水寺、信長は東寺に着陣(言継卿記)。30日には山城勝龍寺、摂津芥川の城を奪いました(言継卿記)。
事態が収まると、10月22日に義昭は参内して征夷大将軍の座に就き、24日には信長に感状を与え、この間には慰労の能があったことなど、勝利を手にした義昭と信長の親密さが「信長公記」に記されています。これら一連の記事に登場する藤孝と惟政の働き(義昭と信長の仲介)は、作者・太田牛一の表現に委ねて良いでしょう。10月22日付・島津義久宛の藤孝副状は、入洛の祝を受け取った義昭の謝意を伝えるものです(『大日本古文書』島津家文書之一)。
元亀2年(1571)10月14日、藤孝は信長の朱印状のもと勝龍寺城の普請を開始し、信長家臣としての地位を築きつつありました。しかし翌年には義昭と信長の関係が悪化。元亀4年2月23日の黒印状、2月26日の朱印状、2月29日の書状から、藤孝が岐阜城の信長に、京都の情勢を報告している様子が具体的にわかります。特に「五畿内、同じく京都の躰、一々聞き届候、度々御精に入れられ候段、寔(まこと)に以て満足せしめ候」で始まる17箇条に及ぶ3月7日付黒印状を、『織田信長文書の研究』の編者・奥野高廣は、「報告した細川藤孝その人と、これに返報と指令を与えた信長との魂の触れ合うような内容」と評しています(いずれも細川家文書)。
近江志賀の平定がなった3月、上洛する信長を粟田口で迎えたのは、藤孝と荒木村重(兼見卿記・信長公記)。はっきりと立場を固めた勝龍寺城の藤孝に対し、信長は西岡の一職支配を与えます(7月10日付け朱印状・細川家文書)。その直後、信長は槙島の義昭を攻め、7月18日の宇治川渡河の兵の中には、藤孝の姿がありました(信長も藤孝も40歳)。
◆藤孝と兄・三淵藤英の死
室町幕府奉公衆から信長家臣へ。藤孝の鮮やかな転身を見る時、その陰にいた兄(異母説あり)・三淵藤英の存在を抜いては語ることができません。藤英は、天文10年前後から将軍側近として御部屋衆・申次として働き(弥四郎→弾左衛門→大和守)、義輝没後は藤孝と共に義昭に仕えました。義昭上洛のための信長への折衝にも、藤孝と二人であたっています(本圀寺文書)。
藤英は、伏見に城を構えて、摂津・大和方面での松永久秀・三好方との戦いに参陣する一方で、藤孝ら親戚筋の清原家・吉田家の人々と遊興や贈答などを交わし、親しい日々を過ごしていました(兼見卿記)。
しかし義昭と信長の対立の中で、藤英は信長に与した弟と袂を分かって、義昭方として二条城に籠城。義昭の敗北により、いったんは藤孝と共に淀城の岩成友通攻めに参戦しました。しかし翌天正2年(1574)5月、いきなり居城の伏見城を破却され、明智光秀の坂本城へ預けられます。そこで子の秋濠とともに自刃して果てたのは、その年の7月6日のことでした(年代記抄節)。金子拓氏は藤英を「室町幕府最後の奉公衆といえるのかもしれない」と評価されています。
三淵藤英・細川藤孝のルーツは、父・養父とも将軍家に仕えた生まれながらの奉公衆です。それを貫いたこの兄の最期を、藤孝はどのようにうけとめたのでしょうか。その心中を知る由はありませんが、渦中の天正2年6月17日、藤孝は勝龍寺城天主において三条西実澄(実枝)から古今集の切紙伝授をうけ、文武両道の信長家臣としての道を突き進んでいくのです。
-参考文献-
・久保尚文「和田惟政関係文書について」『京都市歴史資料館関係文書について』 1984年
・金子拓「室町幕府末期の奉公衆三淵藤英」『東京大学史料編纂所研究紀要』第12号 2002年
・谷橋啓太「細川藤孝の動向について」『大正大学大学院研究論集』40号 2016年
・『大日本史料』十編之二十二・二十三
近江朽木
越前一乗谷
近江桑実寺