三思一言 勝龍寺城れきし余話⑼  2020.12.02

幽斎と紹巴-「玄旨公御連歌」を読む-

◆「玄旨公御連歌」とは?

 九州大学附属図書館(細川文庫)に伝わる「玄旨公御連歌」は。幽斎の連歌を集成した江戸時代の写本です。本格的な紹介をされたのは中村幸彦氏で、全文の翻刻に解説が付されています。ここで指摘された要点をあげると①発句や百韻には前書きがあり、年次や人的関係がわかること、②この写しは細川行孝(細川忠興の孫)が編纂した可能性が高いことです。行孝は正保3年(1646)に新設された宇土細川家の初代当主。烏丸資慶や飛鳥井雅章に曽祖父幽斎の和歌集(衆妙集)の編纂を依頼したり、「藤孝公譜」などを編纂させたりと細川家に強い関心があった人物です。

 九州大学附属図書館附属図書館のホームページからは宇土細川藩の資料目録や「玄旨公御連歌」の全体写真が閲覧でき、近年刊行された『連歌大観』にも収められています。ここではこれらの連歌をとおして、幽斎の行動と人脈を考えてみましょう。

◆年代からみる幽斎の行動

 まず年次のわかるものに注目します(【】は『連歌大観』で付された番号)。最も古いのが【1458~】の「弘治ニ年(1556)九月十日、於坂本晴元御興行/折のこすけふや誰為宿の朝」で、この時の連衆は細川晴元・近衛稙家・紹巴らです。次いで【101】の「公方様御入洛の御催のお使に濃州に下向して逗留申候中に夕庵興行/ゆきやらぬ山路ことはれほとゝきす」は、永禄11年(1568)7月、足利義昭が織田信長の助力を求めて美濃立正寺で面会するころのもので、信長の側近となっていた武井夕庵の興行であることがわかります。

 永禄11年9月、義昭・信長を入京を果たした藤孝は、やがて義昭から離れて信長家臣としての道を選択しました。勝龍寺城築城の翌元亀3年には三条西実澄へ誓状を出し、古今伝授の講釈が始められます。【1418~】の「天正元年(元亀4年)六月廿四日於勝龍寺両吟/花の時風をやまたん夕すゝみ」は紹巴との両吟百韻で、6月5日催行のものにあたるのではと推定されています。というのも近年、紹巴と藤孝が勝龍寺城天主で両吟を行ったことが確実な資料が発見され、文面から6月5日の可能性が高いと考えられるのです。6月5日付の諸本には、天理大学附属図書館綿屋文庫の「連歌集」(横帳写 れ4・2-27)があります。

 また年月は記されていませんが【125】の「二月十七日」於多門/出てみよしかし野守を花の友」の「多門」は大和多聞城と思われます。天正2年2月上旬から3月上旬のひと月余り、藤孝は明智光秀と交代して勤番のため奈良におり、京から実澄も来て古今集講釈が続けられていたのです。【3059~】はこの直後の「天正二年六月廿四日/賦花何連歌」で、場所はわかりませんが(長岡)藤孝・里村紹巴・里村昌叱・辻玄哉・宗及ほか11名の連衆が集まっています。

 勝龍寺城、多聞城と城での連歌をみましたが、そうなると【4】の「天正五卯月八日於丹州亀山惟任日向守城初興行之一座/亀の尾のみとりも山のしけりかな」と【8】の「天正六正月朔日於江州安土越年元日試筆/たちそゝふきのふを去年の春かすみ」も、光秀の亀山城、信長の安土城の築城間もないころの連歌として興味深いものです。池田本「信長記」第十一には、天正6年正月朔日に藤孝が安土城に出仕し、信長から羽柴秀吉や明智光秀らと共に茶を振舞われたことが記されており、「安土越年元日試筆」を裏付けることができます。

 このほか年代がわかる代表的なものを列挙しておきましょう。【6】の「天正六々月三日播州高砂近所刀田寺(鶴林寺)陣取て/夏の夜も霜はおきけりかねのこゑ」と【180】の「播州書写山まかりけるに、庭前のうめのもみち所々に残りけるを見て/萩の葉に秋風ゆつる扇かな」は、信長に命じられた播磨出陣中のおりに。

 【27】の「六月六日姪浜興徳寺住持和漢興行有へきよし有て発句所望有しに公儀(足利義昭)jこれまて云成りと有し程に張行は成かたしとて発句を書遣して入韻所望せしに/かせかほる南を松の戸ほそかな」、【83】の「天正十五 六月八日、利休居士へ関白殿渡御有てしはし御物語有てのち一折と被相催候、発句つかまつるへきよしあれは、箱崎八幡の心を/神代にもこえつゝすゝし松の風」、【71】の「湯津宝塔院興行卯月廿一日/草まくらむすふやちきりほとゝきす」、【72】の「石見かたしけるはなみの玉藻かな」は、秀吉の島津攻めへ参陣のおりのものです。

◆「乙訓」に関わる藤孝の連歌興行

 ここで、乙訓に関わる意味深い連歌興行を2つあげておきましょう。まずは【11】の「於物集女崇恩寺後鳥羽院御忌月二月廿二」の物集女崇恩寺。『京都府の地名』(平凡社)によると、物集女庄に後鳥羽院御影堂があり、そのあたりに後醍醐天皇勅願で元弘寺という天台教院が建てられたが退転。崇恩寺はこの元弘寺を再興したものと記されています。江戸時代中頃の「物集村絵図」(橋本家蔵)をみると、崇恩寺が物集女城西南に接して広大な寺域を有しており、明治初めの絵図(京都府庁文書「社寺録」)には「後鳥羽帝御影殿」が描かれています。日付に「後鳥羽院御忌」とありますので、藤孝の崇恩寺連歌はまちがいありません。天正3年(1575)10月2日に勝龍寺城に呼び出された物集女氏が謀殺され(細川家文書)、その時崇恩寺の本尊がいったん掠奪されたという記録(天龍寺文書)があり、それをふまえるとこの連歌興行を意味深く読むことができます。

 もう一つは「山崎」で、【2】の「十八日於山崎長松院井尻甚六興行」、【13】の「山崎井尻左衛門年頭の会初めとて所望に、わかなを」、【17】の「二月廿五日山崎谷の寺にての月次の連歌とて所望に」、【65】所労祈祷の連歌の発句とて疋田右近所望に、【128】の「正月七日於山崎一折可有興行由有て所望申候時、代作に」、【135】の「山崎より月次連歌とて所望に」の5点が収録されています。

 山崎は古代より栄えた交通の要衝。戦国時代には離宮八幡宮の神人たちが西国街道に沿って自治都市を形成し、藤孝が信長より与えられた西岡の一職支配の圏外にありました。「井尻」や「疋田」も有力神人の一族で永禄11年(1568)の「大山崎惣中連書状」(離宮八幡宮文書)にその苗字を持つものが連なり、「宿老」として中心的な立場にありました。【2】の「長松院」は、明治初めに天龍寺末寺であったことが確認できます(「社寺録」京都府庁文書)。

 また正月の「若菜の連歌」、毎月15日の月並み連歌が戦国時代に行われていたことは記録にもみえ(「万記録」離宮八幡宮文書)、惣中から所望されて藤孝が句を寄せたり、興行に出座したことがわかるこれらの前書きは、藤孝の連歌をとおした幅広い交流を如実に示す好史料です。【17】の「山崎谷の寺」は、下に掲げた「洛外社寺絵巻」のとおり摂津との国境、天王山の南側谷筋にあった「谷寺(観音寺)」で、「宗鑑屋敷」からすぐの山手にありました。近年石清水八幡宮神人橋本等安と藤孝・紹巴との交わりを示す連歌資料が注目を集めていますので、これらとあわせて「山崎」の惣中連歌の内容も必見です。

◆藤孝ー紹巴ー明智光秀

 幽斎の連歌を語るうえで欠くことができないのが、里村紹巴(1525-1602)の存在です。二人が連衆として同席していたことができる最も古い記録は、先に述べたとおり、弘治2年(1556)9月の坂本における細川晴元興行です。この時紹巴は32歳、藤孝は23歳。発句の「近衛殿・梅」は、二人の共通の師である近衛稙家でしょう。幽斎と紹巴の深い関係は、ページの末尾に掲げた「幽斎・智仁親王古今伝授年表」(PDF)をご覧いただけばわかるとおりで、幽斎の大名として、また文化人としての成長は、紹巴と共にあったのです

 紹巴は大和興福寺一乗院の小者・松井昌佑の子で、初め周桂(1470-1544)や里村昌休(1510-52)に学び、昌休亡き後はその子昌休の子・昌叱の後見として里村家を継ぎました。三条西公条に「源氏物語」を聞き、近衛稙家に古今伝授を受けて公家衆と親交を深め、数多の戦国大名の間を駆け巡って幅広い政治的・文化的な活動を展開した当時のキーマンです。

 紹巴といえば、明智光秀の「愛宕百韻」に関わったとして余りに有名ですが、実は光秀と紹巴に藤孝を加えた三人は、信長入京直後からの馴染みの連衆です。2020年は大河ドラマに関連して、紹巴が関わった珍しい連歌懐紙がたくさん出展され、岐阜市歴史博物館では「賦何人連歌百韻懐紙」(天正2年7月4日・松井文庫蔵)、亀岡市文化資料館では「賦何̻▢連歌」(永禄11年霜月12日・大阪青山歴史文学博物館蔵)と、紹巴ー藤孝ー光秀が絡む興味深いものがありました。この3人の関係は、改めて紹介しようと思っています。

 戦国時代は法楽、懐旧、祈願、祝賀、歓迎、所労・・・と事あるごとに人々は集い、連歌に熱中しました。「玄旨公御連歌」には懐紙として伝わっていないものも「写し」としてたくさん収録されており、ここから戦の世を生き抜いた人々の行動や心情を、いきいきと読み取ることができるのです。

 

 ー参考文献ー

・中村幸彦「翻刻玄旨公御連歌」『文学研究』60号 九州大学大学院人文科学研究院編 1961年

・「万記録」(離宮八幡宮文書) 『大山崎町史』史料編 1981

・「山崎宗鑑」『大山崎町史』本文編 1983年

・土田将雄『続細川幽斎の研究』 笠間叢書270 1994年

・『物集女氏と物集城』 物集城を考える会 2005年

・㈱古典ライブラリー『連歌大観』第三巻 2019年

・竹中友里代「石清水八幡宮神人家文書にみる連歌師紹巴と細川幽斎」『京都府立大学学術報告人文』71 2019年

・金子拓『信長家臣明智光秀』平凡社新書923 2019年

・『丹波決戦と本能寺の変』 亀岡市文化資料館 2020年

・『戦国時代の物集女氏と乙訓・西岡』 向日市文化資料館 2020年

 

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細川幽斎・八条宮智仁親王古今伝授年表
幽斎出座の主要な連歌会を一覧にしています。
年表.pdf
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「玄旨公御連歌」 九州大学貴重資料デジタルアーカイブより 資料番号1475214

「洛外社寺絵巻」(江戸中期)にみえる「宗鑑屋敷」と「谷寺」

京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より

物集女崇恩寺(明治3年) 

京都府立京都学・歴彩館蔵 京都府庁文書「社寺録」明治3-33より