◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮(26) 2019.10.03
◆「長岡」ブランドの広まり
明治初期、乙訓地域には省線(JR)の線路が敷かれましたが、最寄の駅は向日町と山崎にしかありません。光明寺や長岡天満宮への観光は、人力車や洛西馬車組合(1908年、新神足村に開業)の八人乗りの馬車が活躍していました。
淀川右岸を経由して京都・大阪間の電気鉄道を通す計画を資料から確認できるのは、大正中期からのことで、大正11年(1925)6月、長岡天神のすぐ東を走る路線敷設のため、新京阪鉄道株式会社が設立されました。紆余曲折はありましたが、御大典を目前とした昭和3年(1928)11月1日、京都の西院と大阪の天神橋6丁目を結ぶ営業が開始され、長岡天神駅が開設されたのです。
このころから新駅のまわりには、「長岡〇〇〇」と称する施設が次々とつくられていきます。まず大正11年(1992)、長岡天満宮境内西南に「長岡運動場」が開設します。これは、昭和天皇の渡欧記念として、乙訓郡長のお声がかりにより、勤労奉仕と町村の補助でつくられたものです。1万人の観衆が集まる大運動場では、府下八郡連合青年団の陸上競技大会などが催され、多くの人が押しかけました。昭和9年には八条ヶ池で貸しボートの営業も始まり、娯楽や憩いの空間として京阪神からの観光客が増加し、公衆便所の新設など施設整備に対応するため、長岡天満宮は京阪電気鉄道旅客掛に補助を申し入れています。
この時期、観光客が格段と増加していく背景には、昭和御大典や電気鉄道の普及を契機とした、大正から昭和にかけての全国的な観光ブームをふまえて考えていくことが大切です。さらに境内の環境整備という面からみると、昭和5年に長岡天満宮の周辺が風致地区に指定されたのも大きなことです。以後京都府の補助をうけて桜・楓・松・梅、そしてキリシマツツジの植栽を次々と進めていくようすを、長岡天満宮に伝わる資料から具体的に追うことができます。
そして長岡天神駅開設の翌年には、2万5000人収容の長岡競馬場が、昭和10年にはタキイ長岡実験農場が、昭和11年に長岡禅塾も開設されました。長岡天満宮→長岡天神駅から「長岡」ネーミングの企業や施設が生まれ、昭和の時代に「ながおか」がブランド名として広く定着していくことになったのです。
◆駅と道路がつくりだした演出
交通機関の新設といえば、昭和6年に省線神足駅(現在のJR長岡京)が開設されるという、もう一つの大きなことがありました。神足駅は、停車場用地の寄付および工事費の半額を地元が負担するという請願駅です。駅の開設は、東口の区画整理と工場誘致を合わせて進める新神足村の経済振興策で、以後続々と工場が進出してきました。
しかし経済発展の陰では、昭和恐慌による農村の困窮があり、省線神足駅と長岡天満宮石段下を結ぶ道路を拡幅・直線化する改修工事が、新神足村の時局匡救土木事業として昭和7年に実施されました。
厳しい時代背景のなかで敷設されたとはいえ、この道路の存在は、その後の長岡天満宮の正面に対する意識変化をおこさせることになります。冒頭の写真(長岡天満宮蔵)は、昭和27年(1952)の菅原道真1050年御神忌の大万灯祭の様子です。八条ヶ池石段上から神足駅方面を写したもので、献木(梅)の山車と大勢の氏子が道路を埋め尽くしています。本来は西国街道一里塚を西に折れて八条ヶ池の北堤に至り、西陣町から御成道へ入る道筋が主要道路でしたが、神足駅ー長岡天神駅ー八条ヶ池石段を結ぶ新設の道路が行列のルートとなり、すっかりこちらの道がメインストリートです。
新京阪や省線を使って訪問する観光客は駅を降り、梅・松・桜・楓が連なる八条ヶ池の長大な堤を眺めながら、西へと長岡天満宮を目指します。石段を登ると目前にキリシマツツジが現れ、しだいに池の水面が左右に広がります。さらに歩を進めれば、天神山と西山連峰の起伏が重なる特別な風光に包まれ、なんとなく雅で謎めいた雰囲気に魅了されます。二つの駅とそれを結ぶ道路は、長岡天満宮ならではともいうべき驚きの演出をつくりだしたのだ!といえるのです。
ー参考文献―
・池田敬正「新たな展開を示す長岡」『長岡京市史』本文編二 1997年
・高久嶺之介「昭和戦前期の長岡天満宮」『長岡天満宮資料調査報告書』2014年
昭和30年(1955) 地理調査所発行1万分ノ1「神足」より 長岡天満宮の西南「天満塚」の長方形が「長岡運動場」
タキイ種苗長岡研究農場から八条ケ池 昭和30年代 『長岡京市の景観』より
天神道 昭和40年代か 写真奥の並木が八条ヶ池 長岡天満宮蔵