三思一言◆ つれづれに長岡天満宮(24) 2019.06.21                

水前寺成趣園・古今伝授の間

◆中小路宗城が写した図面

 「長岡天満宮古記録写」(長岡天満宮蔵)は、明治初めの社掌・中小路宗脩所持のものを、明治36年に中小路宗城が写した冊子です。桂宮家の長岡詰所(もしくは祝詞師石原家)に伝来していた様々な文書を抜き書きした覚えですが、このなかに、開田の御茶屋と水前寺成趣園の「古今伝授の間」との関係を示す重要な図面(3点)が含まれているのです。

  八条宮家では、初代智仁親王が細川幽斎から古今伝授を受けたという由緒をとても大切にしました。京都では火災の難があるということで2代智仁親王は、その建物を開田の天満宮に移築します。当初は、天満宮から少し離れた天神山の見晴らしのよい場所にありましたが、元禄期になるとそれを大池畔に移し、開田の御茶屋として修造を続けました。①の図は江戸時代中期のようすで、付書院のある座敷(8畳)+床の間のある座敷(8畳)+詰所(10畳)が連なる切妻の主棟に、台所棟と客間棟が増築されました。しかし、享和2年(1902)の900年御神忌の頃には、主棟単独であった元の建物に復されたことがわかっています。

  ②は「御茶屋御書院窓之図」、③は「長岡被移置御先祖宮従細川玄旨古今集御伝受之御殿図」の原題があります。②と③の図は、明治4年(1871)に「由緒ある建物」を宮家から細川家に引き渡す際、部材に添えられた「見取り図」の写しとみてまちがいないでしょう。

 ◆『古今伝授間の由来』と平成の解体修理

 熊本藩へ引き取られた部材は、後年に増築された十畳の間を捨て、座敷の材料のみ大坂にあった藩の倉庫に運ばれます。しかし廃藩となったため移築のことは頓挫し、部材は用達商人清水常七のもとに長年置かれたままになっていました。再び移築の動きが起こったのは、明治44年に常七の子清水勉が細川家に献納を申し出たのがきっかけで、再築の場所は細川家と縁の深い出水神社の神苑、水前寺成趣園に決まります。年月を経て部材は腐朽したものありましたが、細川家では当時の「見取り図」を以て附属の間を補足し、桂離宮や大徳寺龍光院等を参考として再建が図られ、大正元年(1912)11月に竣工しました(熊本県立図書館蔵『改訂古今伝授間の由来』)。

 現在の「古今伝授の間」は、はたして開田の御茶屋にあった建物を引き継いでいるのか?。建築史の西和夫先生は、長岡天満宮伝来の「古記録写」、熊本県立図書館蔵の『古今伝授間の由来』と『桂宮日記』の内容を詳しく検討し、「屋根が茅葺に変わり、平面が一部縮小されたものの、旧状をよく伝えている」と考察されました。

 このことは、平成21年(2009)から始まった解体修理で、さらに確実となります。座敷の床框や筬欄間などから江戸時代の墨書がみつかり、付書院(花頭窓)は中小路宗城が写した図面とぴったり一致したのです。座敷の柱や筬欄間は、京都の八条宮屋敷にあった慶長期まで遡ることもわかりました。

 水前寺成趣園の美しい池畔に映えるゆかしい建物は、細川幽齋と八条宮智仁親王の古今伝授をとおした深い縁、そして京都から開田へ、開田(長岡)から大坂へ、大坂から熊本への流転を重ねて大切に守られてきた軌跡を、確かに伝えているのです。

 

 -参考文献-

・西和夫「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋」『建築史学』第1号 1983年

・『古今伝授の間修理工事報告書』 京都伝統建築技術協会 (公財)永青文庫 2011年

①開田御茶屋 「長岡天満宮古記録写」(長岡天満宮蔵) 『長岡天満宮資料調査報告書 古文書編』より。

②御茶屋書院窓


③古今集伝受の御殿図 この図は切り紙1紙で、「長岡天満宮古記録写」の袋綴じのなかに挿し込まれている。『長岡京市史』建築美術編より。


侯爵細川家が発行した『古今伝授間の由来』

大正12年発行の冊子と、昭和10年発行の改訂版冊子があります(熊本県立図書館蔵)。冊子巻頭の写真3カットと平面図は、ほぼ同じ内容ですが、成趣園酔月亭跡に再建された経過は、改訂版の巻末の方にくわしく記されています。

再建まもないころの水前寺成趣園「古今伝授間」

 

大正12年発行『古今伝授間の由来』より 熊本県立図書館蔵