三思一言◆ つれづれに長岡天満宮(22) 2019.05.30                

京都府技師亀岡末吉と長岡保勝会

◆亀岡末吉の生涯と事績

 亀岡末吉(1865-1922)は、慶応元年11月に旧前橋藩士亀岡龍象の三男として生まれ、画塾彰枝堂で洋画を、東京美術学校で日本画を学びました。建築の道に入ったのは、明治29年(1896)より日光東照宮の実測に従事するようになってからです。内務省の嘱託として古社寺保存に携わった後、明治40年5月に京都府の技師となりました。修理設計・監督にあたった京都府下の建物は、醍醐寺薬師堂・本願寺飛雲閣・法観寺五重塔・南禅寺方丈及清涼殿・仁和寺金堂・大徳寺山門及勅使門・慈照寺銀閣:妙喜庵書院及数寄屋・清水寺西門・金胎寺多宝塔・正傳寺方丈・酬恩庵仏殿・大福光寺多宝等・智恩寺多宝塔・萬福寺伽藍・賀茂別雷神社社殿・賀茂御祖神社社殿・八坂神社楼門・稲荷神社本殿・石清水八幡宮本殿・水度神社本殿・出雲神社本殿・双栗神社本殿・白山神社拝殿・宇治上神社本殿及拝殿とされています(後掲の関野貞追悼文)。

 亀岡末吉は古社寺の修理保存に取り組むとともに、建物の新築設計を精力的に行いました。関野貞の追悼文(『建築雑誌』№441:廣岡幸義翻刻資料)から列記すると、京都東山忠魂堂(大原野正法寺に移築)・京都東本願寺勅使門・京都東福寺勅使門・京都武徳殿車寄及貴賓室・京都今宮神社透塀及幣殿・大阪北区歌舞練場・滋賀日吉神社神饌所及社務所・滋賀大原(大鳥)神社楼門其他・滋賀油日神社本殿其他・岡山官幣大社吉備津神社神餞所です。しかし亀岡は大正6年頃から病のため辞職し、まもなく東京に移ったが病い療えず、大正11年11月26日、58歳でこの世を去りました。関野貞は追悼文の最後を「君が終始熱心に古社寺保存に努力せし功績はさることながら、明治時代和風建築革新の先覚者としての努力は君が計画せし建物と共に、永く世人に記憶されることであろう」と結んでいます。そのことばのとおり、現在「亀岡式」とよばれる個性的な意匠は高く評価され、多くの人々を魅了しています。「百聞は一見に如かず」ということで、お許しをいただいた映像を公開しましたので、華麗な亀岡末吉の意匠をお楽しみください。

YouTube亀岡末吉の建築めぐりⅠ 神社編(長岡天満宮・今宮神社・出石神社・大鳥神社)  滋賀県甲賀̪市大鳥神社へリンク

YouTube亀岡末吉の建築めぐりⅡ 寺院編(正法寺・仁和寺・東福寺・東本願寺)

 

 ◆長岡保勝会の社殿改修

 長岡天満宮の手水舎(旧祝詞舎)の設計が「亀岡末吉にまちがいない」と評価されたのは、京都府教育委員会による近代和風建築の一連の調査がきっかけでした。そして、そのような視点で長岡天満宮に伝わる古文書を精査してみると、長岡保勝会による社殿改修の記録に、亀岡との関係を示すはっきりした資料が存在することがわかったのです。

 「祝詞屋拝殿建築日誌」(写真⑥)によると、祝詞屋の改築と拝殿修理を京都府社寺課への依頼することが決まったのは明治45年5月7日、祇園中村楼における発起人と幹事の協議によるものでした。7月10日、京都府社寺課建築技師亀岡末吉を長岡天満宮に招聘し、相談が行われます。この時の参加者は京都府から亀岡のほか書記の石田・濵谷、乙訓郡長森本和三郎・書記小山、保勝会幹事大伴・下村・三上・北尾・黒田・中小路五郎と会長中小路宗城です。相談のあとは錦水亭にて昼食。京都府社寺課の面々は馬車にて帰途に着きました。これをうけ、7月20日に亀岡への設計委嘱が決まり、実測は安井技手(楢次郎)が行いました。長岡天満宮には大正元年11月付の見積書(仕様書)など亀岡の印がある文書3点が残っています(写真➆)。大正元年12月15日、設計図面ができたということで、保勝会の但尾善吉が神楽岡の亀岡宅まで受取りに行きます。そして大正2年1月20日には保勝会の面々が京都府社寺課に亀岡を訪問し、さらに1月23日に保勝会の幹事が亀岡を再訪し、設計変更と請負人の指定をうけました。改修の内容は、拝殿は屋根を葺き替え、勾欄を付す修理とし、本殿の前に唐破風の檜皮葺祝詞舎を新築するというもので、大正2年8月10日に落成しました。この時は亀岡末吉の代理として安井楢次郎が検分に来ています。安井は亀岡のもとで醍醐寺・賀茂別雷神社・宇治上神社等の修理に携わり、このころには稲荷神社や八坂神社の修理に従事しつつ、平安神宮武徳殿の設計も行っていたようです。改修前と改修後を見比べられるように写真を掲載させていただきました。昭和16年の大改造でこの拝殿はなくなりましたが、祝詞舎は手水舎として今も残っており、天満宮らしい梅紋を埋め込んだ亀岡式意匠を堪能することができます。

 長岡保勝会はこの後連歌所と社務所(宮司宅)を新築し、境内は上段に社殿と社務機能が集中する現在のような姿となりました。連歌所は亀岡の意匠を簡略化した「亀岡風」です。これを「亀岡設計」と言い切るのはむずかしいようですが、長岡保勝会の「連歌所改築日誌」に亀岡の名前がみえること、中小路宗康の覚え書に「設計者 京都府社寺課技師亀岡末吉」、「現場監督 右社寺課より選定の野口喜太郎技師」とあることから、なんらかの関わりはあったものと思われます。現在連歌所は社務所になっており、平成22年の耐震修理で大正3年9月の棟札が確認されました。長岡天満宮の手水舎(旧拝殿)と社務所(旧連歌所)は小規模ながら、「和風建築革新」の先覚者亀岡末吉と「神社再生」をかける長岡保勝会が交錯し、そのなかから生み出された価値ある建物であることはまちがいなく、今後の幅広い研究の展開を期待します。

 ー参考文献ー

・『京都府の近代和風建築-京都府近代和風建築総合調査報告書-』 京都府教育委員会 2009年

・清水重敦「近代における建築の継承と復古-京都府近代和風総合調査から-」奈良文化財研究所紀要 2009年

廣岡幸義「文化財修理における細部意匠整備-亀岡末吉の文化財修理-その1」日本建築学会計画系論文集第637号 2009年

・廣岡幸義「亀岡末吉の古社寺保存及び社寺建築作品における細部意匠の展開に関する研究」神戸大学大学院博士論文 2011年

・『長岡天満宮資料調査報告書 古文書編』 長岡京市教育委員会 2014年

①改修前 長岡天満宮蔵 画像提供:長岡京市教育委員会

②改修前の境内 明治32年「長岡天満宮之景」より 長岡天満宮蔵


③改修後 長岡天満宮蔵 画像提供:長岡京市教育委員会

➃改修後の境内図面 長岡天満宮蔵 画像提供:長岡京市教育委員会


➄祝詞屋扉の意匠

⑥祝詞屋拝殿建築日誌

明治45年5月~大正2年8月

➆亀岡末吉印の見積書・仕様書

➄~⑥長岡天満宮文書 画像提供:長岡京市教育委員会


手水舎(旧祝詞屋)

手水舎(旧祝詞舎)の


社務所(連歌所)

社務所(連歌所)玄関