◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⒃ 2019.01.06
◆西新町
ここは長岡天満宮の北鳥居、西陣町です。バス停があるので長岡京市民ならお馴染みで、「応仁の乱」ゆかりの地名ですか?とよく聞かれます。いえいえちがうのですよ。その鍵をにぎるのが、鳥居の前にある嘉永5年奉納の灯籠一対です(灯籠分布図ヲ地点)。寄進者は「西新町天神講」。江戸時代の「西新町(にししんちょう)」が訛って、いつしか曰くありげな「西陣町(ニシジンチョウ)」になったという訳です。
新町とは古くからある在所に対して、新しくできた町(家のまとまり)ということです。新しいといっても元禄からある由緒正しき地名で、承応3年(1654)に新しく開発して新田(新規の石高)に取り立てたところが、元禄の検地のさいに新町として改められ、付けられた地名です。唐道(西国街道)筋に36軒、丹波街道筋に13軒があり(「桂宮日記」元禄11年4月26日条)、この丹波街道筋の新町を、東の町場に対して西新町とよびました。ちなみに、正保2年(1645)の「開田村絵図」(歴彩館蔵)は、このころから始まった八条宮家の開発に先立って作成されたのかもしれません。
◆御幸道と参詣道
京都あるいは下桂の屋敷から宮様が御成りになる時は、唐海道(西国街道)の一里塚から西へまっすぐ、つまりここ西新町から開田御茶屋に入りました。このルートを「御幸道」と記した絵図もあり、開田御茶屋の御成り門に至ります。
一方で、大池の東堤から中堤をとおり、開田御茶屋を経て天満宮へ到るルートも、参拝の人々で賑わいました。石灯籠の分布からは、嘉永の大万灯祭にあたって、境内の外側にもたくさん建立されたことがわかります。また、石灯籠同様、京都や大坂の人々がこぞって絵馬や鉄釜・鉄竈を寄進しており、それらの品々から、洛西の名勝としての長岡天満宮の人気や、信仰の広がりを感じることができます。
-参考文献-
・百瀬ちどり「村の石高と開田村新町」『長岡京市史』本文編二 1997年
・『菅公千百年大萬灯祭記念̪誌』長岡天満宮 2005年
・『長岡天満宮資料調査報告書 美術・中世編』 長岡京市教育委員会 2012年
嘉永4年5月吉日奉納 曳馬図
中央に馬、左右に立烏帽子に狩衣姿の人物。天明5年奉納の「松に旭日図」の裏面に描かれている。
嘉永5年2月吉日奉納 万灯祭之図
嘉永の万灯祭の様子を描いたもの。右縁に「松榮講」、左縁に「油小路通山田町石川屋儀兵衛/新町通腹帯町近江屋宗助」の刻銘がある。手前に大池・中堤、奥に本殿・拝殿・絵馬堂がみえる。
御神忌1100年(2002)年催行の湯立神楽
湯釜と鉄竈は、嘉永5年2月吉日に奉納されたもので、両方に「御本殿作事出入中」とある。湯釜には作事に関わった30人の職人の名がある。