◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⒂ 2018.12.30
◆社殿の荘厳
今年もあとわずか。お正月には大勢の参拝者が列をなし、それぞれの願いを祈ることでしょう。今回は、ふだんは気が付かないけれども、神とともにそっと私たちを見守ってくれる灯籠に目を向けてみましょう。
金銅製灯籠は、社殿をきらきらしく荘厳するもので、長岡天満宮には現在38基が用いられています。そのうちのほとんど(34基)を占めるのが、こぶりの丸い提灯形の金灯籠です。梅と菊の透かし彫りがあしらわれ、宮家ゆかりの長岡天満宮らしい上品な雰囲気に引き込まれてしまいます。
これらの一つ一つを、ひやひやするような高いところからおろし、精緻な調査に取り組まれたのが久保t智康先生です。久保先生の御研究によれば、欄間と腰羽目板の意匠から大きく二つ、さらに脚と底板の意匠から二つ、それらの組み合わせから大きく四形式に分類されています。これらは天明の大修造を契機とし、享和の万灯祭の時など段階的に調進されたものであり、人々の長岡天満宮への崇敬の実像を今に伝えているのだという久保先生の奥深い言葉に胸をうたれます。目を凝らすと底に刻まれた模様や銘文が誰でも見えますよ。
◆下桂の人々
石灯籠の調査も苦労を要します。不安定な足場で拓本をとりながら解読をしていただいたのは史迹美術同攷会のみなさんです。しかし市史調査からすでに30年が経ち、場所が移動したのもありますので、今回一般に見える範囲のところを再調査して、一覧表と図を作り直しました。あらためてみると、やはり元禄、宝暦、安永・天明、嘉永と大きな修造を契機に奉納されたことや、建立地が境内から境内へと広がっていったことがわかります。
嘉永の石灯籠の紹介は次回として、ここでは安永・天明のものをとりあげておきましょう。この時奉納された石灯籠はロ(本殿前仔牛の像の横)、ハ(石段酒樽のところ)、ホ(錦水亭への分岐)、へ(昭和の石敷き参道)、ト(八条ヶ池中堤西)の5対です。これらは、八条ヶ池を渡って、天明年間に整備された本殿へ至る参詣道に沿っていたことがうかがえます。銘文で注目すべきは「桂船荷揚場」・「桂材木仲間」・「風間」・「中路」と下桂村の人々の名があることです。
下桂はもちろん「下桂御茶屋」(現在の桂離宮)のある村です。八条宮家は江戸初期より3000石余りの領地のほかに「山林竹木・河の物成・渡船等」が与えられていました(桂宮文書)。近年、京都市歴史資料館の松中博さんが、下久世の渡船運営に関する論文を発表され、その実態がわかるようになってきました。桂宮と名乗るようになる明治初めまで、宮家が安定した経営を続けられたのは、このような副収入があったからです。石灯籠は宮家の幅広い活動や、それを通じた下桂と開田の結びつきをも物語っているのです。
-参考文献-
・『長岡京市史』建築・美術編 1994年
・久保智康「金銅製釣灯籠にみる社殿の荘厳」『長岡天満宮資料調査報告書』美術・中世編 2012年
・松中博「近世における下桂村の渡船運営について」『京都市歴史資料館紀要』第25号 2015年
一見同じようにみえますが、右と左で意匠が少し違うのがわかりますか?。
石灯籠一覧 | ||
地点 | 奉納年月 |
寄進者 |
イ |
元禄15年2月 |
宮仲間 |
ロ |
安永9年11月 | 藤田□□ほか2名 |
ハ |
天明3年3月 | 桂船荷揚場役方風間八左衛門ほか4名 |
ニ |
宝暦13年4月 | 城州上鳥羽村 村若林右衛門 |
ホ |
天明3年2月 | 桂材木仲間 |
へ |
天明元年9月 | 京都糸屋町中路喜六・下桂村中路儀右衛門 |
ト |
嘉永4年11月 | 西小路利兵衛・伏見板橋萬屋六兵衛ほか2名 |
チ |
天明2年2月 | 中小路忠兵衛・伏見魚屋町茨木屋三郎兵衛 |
リ |
嘉永4年11月 | - |
ヌ |
嘉永4年11月 | 風間八左衛門 |
ル |
嘉永4年11月 | 西村久左衛門ほか3名 |
ヲ |
嘉永5年□月 | 西新町天神講 |
ロ地点北
ハ地点西
ホ地点
ホ地点 「桂材木仲間」
へ地点
チ地点