三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑸ 2018年4月21日                    

2018きりしまつつじ

                   ~宮廷文化の記憶~

◆きりしまめぐり

 いつもより早いきりしま満開に、長岡天満宮・八条ヶ池でも、多くの人々が、新緑と深紅の花のコントラストに酔いしれています。

 きりしまは、鹿児島県霧島に自生していたつつじを品種改良したものです。正保年中(1644-1647)に薩摩より大坂へ1本が来て、そして取木により5本が京都に来たもののうち、2本が御所に植えられたそうです(『続江戸砂子』)。

 このころ整備された宮廷ゆかりの庭園、京都御所・仙洞御所、桂離宮、曼殊院、青蓮院を訪ねてました。赤+オレンジの微妙な色合いと、小花をたくさんつける可憐さが貴人に好まれ、流行したのでしょうか。それぞれ趣向を凝らした優雅な庭に、確かに宮廷文化の記憶がありました。

 ◆伝統と新しい時代

 上の写真は、明治8年(1875)の長岡天満宮を描いた絵図です(歴彩館ホームページより)長岡天満宮の歴史を考える上でとても貴重なものですが、それはまた別の機会として、ここではきりしまに注目しましょう。

 きりしまがあるのは、本殿の下の崖(現在の錦景苑)と大池(八条ヶ池)の中堤の2箇所です。本殿下の空間は、元禄2年(1689)から始まる霊元上皇の再興のさいに整備されたもので、社家・連歌所・宮家の詰所などがありました。その庭園に池をつくり、崖一面にきりしまが植えられたのは、天明2年(1782)の大修造の時でしょう。京極宮と称する親王3代が続くこのころは、中島・出島・御船場が築かれ、石段や土塀を廻らせて、境内はいっそう雅な趣向となりました。宮様の御成りもあったのですよ(「桂宮日記」)

 もう1箇所は、大池中堤です。ここにきりしまが植えられたのは、菅原道真御神忌950年の嘉永5年(1852)のころです。20年余りを経た明治初めには、列をなした若木にたくさんの花が咲いているようすがわかりますね。

 この絵図が描かれたのは、明治維新によって桂宮家の造営が途絶え、新しい時代への険しい道のりを歩み始めたその時のことです。江戸時代から近代へ時代が移り変わるなかで、きりしまはどうなったのでしょうか。

 

 ◆新・きりしま物語

 明治34年(1901)御神忌1000年を前に、長岡天満宮周辺一帯を「公園」のように整備しようという計画がたてられます。この趣意書には「梅・松・桜・楓樹四時に交代して雲を覆い、錦を織る。そのつつじの盛時においては千畳の紅壇満地」の美観が手入れされずに荒廃していることが述べられ、13項目の整備事業が掲げられています。中堤も石垣で護岸し、根を保護して樹勢を回復します。八条ヶ池は人工池ですから、人による手入れが不可欠なのです。室戸台風によってたくさんの樹木が被害をうけるということもありましたし、道路の拡幅・住宅地の拡大など、常に環境・景観保護の課題と向き合わなければなりません。本殿下崖のきりしまは、昭和に入ったころにはもうなかったそうですが、御神忌1100年のころ、雅なもみじの庭園(州浜と瀧)として再生されました。

 そして、平成3年からは「シンボルづくり事業」、平成5年からは「ため池等整備事業」が取り組まれ、中堤の保護・堤体の拡幅・水上橋の設置など大規模な整備のなかで、1000株のきりしまが新たに植えられました。それから20年余り、宮廷文化の雅な記憶と現代的な市民の公園が融合した、かけがえのない空間が創り出されました。感謝!。これからの「新・きりしま物語」を祈らずにはいられません。

 

-参考文献-

『長岡京市史』建築・美術編 1994年

『長岡京市の景観』 長岡京市教育委員会 2001年

 

                     きりしまめぐり

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