◆三思一言◆◆◆ つれづれに長岡天満宮⑴
2017年9月1日
◆西和夫の『桂離宮物語 』
「楓宸百景」では、長岡天満宮と八条ケ池の写真をたくさん載せています。ご覧いただけたでしょうか。ここは現在にいるはずなのに、ふと気が付くと過去に迷い込んでいるような錯覚に陥いるふしぎな空間です。何事につけて天神さんへお参りしつつ、いまだよくわからないまま、さまよっているといったところです。
なぜこのように何度もいきたくなるのか。それは近くて、いつもきれいということもありますが、長岡天満宮に関する多彩な歴史資料と出会う幸運に恵まれてきたからです。訪れるたびに、専門の先生方や関係のみなさまからいただいた大きな学恩を想い起こします。
長岡天満宮の見方を劇的に変えるきっかけとなったのが、西和夫(1938-2015)の『桂離宮物語 人と建築の風景』という一冊の本です。見えるものをよく見て、そして見えないものも見えるようになるために資料や記録をよく読むこと、そしてそこに生きた人々の営みとその時代を考えることの大切さが述べられています。この『桂離宮物語』を読んで、ほんとうにそのとおり!、とあらためて感じ入りました。
◆江戸時代の御茶屋文化
西和夫は、長岡天満宮に伝わる古記録を調査して、開田御茶屋を初めてとりあげた建築史家です。「御茶屋」の言葉だけで、江戸時代の雅な宮廷文化を思い浮かべることができる人は、そう多くはないことでしょう。開田御茶屋は、長岡天満宮(開田天満宮)の一画に、八条宮家(常磐井宮家➝京極宮家➝桂宮家)が下桂の御茶屋(現在の桂離宮)とともに造営した由緒ある建物でした。長岡天満宮を知ることは、江戸時代に営まれた御茶屋文化を広く理解することにもつながります。縁深きところを訪ねれば、壮大な人工池、繊細な出島・中島・御舟着・キリシマツツジ、鄙の里山と田園風景、いにしえの都のはるかなる眺望・・・と、共通するなにかを発見することができます。
17世紀中ごろにつくられた「洛外図屏風」には、洛外に点在する上皇や宮家・門跡の御茶屋がくわしく描かれています。開田御茶屋も「八条殿茶屋」の貼札とともに、大池(八条ケ池)を眼下にした小高い丘の上にあります。「洛外図屏風」が描かれたころ、八条宮智仁親王の皇子・智忠親王は下桂の御茶屋再整備を進め、その弟良尚法親王は現在地に曼殊院を造営していました。後水尾上皇も長谷御茶屋・幡枝御茶屋への行幸をやめ、修学院の地に理想の御茶屋を造営します。このころ御茶屋に集う人々の営みは京都文化の大きな流れとなっていました。開田御茶屋と長岡天満宮のあり方も、そのような時代の動きのなかでとらえると、深く理解することができるのです。
◆「つれづれに長岡天満宮」への御招待
江戸時代に八条宮家によって造営され、庇護をうけたことは、長岡天満宮にとってたいへん大きなできごとでした。しかし今日なお美しく再生されながら多くの人々に親しまれてきたのは、それだけではありません。ここならではの特別な理由があるのです。フランス国立ギメ東洋美術館の「太政威徳天縁起絵巻」、宮内庁書陵部の八条宮智仁親王古今伝授資料や桂宮日記、長岡天満宮の古記録や長岡保勝会関連資料、そして私たちの身近にある建物や絵馬・灯籠など、さまざま資料から長岡天満宮の奥深い歴史に分け入ってみましょう。「ものがたり」という域には達しませんが、つれづれに、これまで心に残った資料の紹介を連載していきます。
興味のあるかたは、ぜひご訪問ください。
-主要参考文献-
・西和夫『桂離宮物語 人と建築の風景』 ちくまライブラリー82 1992年
・西和夫『京都で建築に出会う』 彰国社 2005年
桂離宮(下桂御茶屋)
草創は17世紀初頭、八条宮初代智仁親王。それを受け継いで整備完成させたのは2代智忠親王。その後6代文仁親王・7代家仁親王、8代公仁親王の時代に別荘として利用された。現在の姿は家仁親王の時代に手が加えられたもの。明治14年に淑子内親王が亡くなると宮家は断絶し、宮内庁の所管となり、桂離宮とよばれるようになった。
桂宮家は、下桂の茶屋のほかに御陵(広野)御茶屋・開田御茶屋(長岡天満宮境内)の3つの御茶屋を造営した。宮内庁に伝わる桂宮家文書や桂宮日記から、これらと宮家が深くかかわりながら維持されていたとがわかる。
園林堂遠景。かつては宮家代々の位牌・尊像とともに、細川幽斎像や古今伝授にまつわる書状が納められていた。扁額は後水尾上皇筆。
笑意軒から早苗の田園をみる。「鄙」は御茶屋の重要な要素だ。ここには智仁親王の兄・曼殊院良恕法親王筆の扁額が架かる。
苑内で最も高い賞花亭からみる愛宕山。扁額は智仁親王の第二子・智忠親王の弟曼殊院良尚法親王筆。
曼殊院
明暦2年(1656)、八条宮智仁天皇の第二皇子良尚親王が、洛中からここへ寺地を移した。建物や庭の意匠は桂離宮と共通するもので、大書院の周辺には、キリシマツツジが植えられている。
勅旨門への参道の横に弁天池があり、天満宮と弁天堂がならんでいる。天満宮は室町末期の建立とされており、菅原道真がまつられる。ここから石畳につながる切り通しの素朴な趣の参道は、天明の大改修前の長岡天満宮参道を彷彿とさせる。ここから少し小道を歩くと、修学院の御茶屋である。
大書院・小書院・庫裏などが、さまざまな趣向の庭で繋がる。
玄関に京鹿の子のかわいい花。今度はぜひキリシマツツジの季節に。
石垣の道。「洛外図屏風」では、この特徴的な外構えが写実的に描かれている。
修学院離宮(修学院御茶屋)
後水尾上皇は、洛北の長谷や岩倉に御茶屋をもっていた。しかしより理想的な御茶屋を企図して新たに造営したのが修学院の御茶屋である。金閣寺の僧・鳳林承章の日記「隔蓂記」には、この間の見聞がくわしく記されている。それによれば、最初に下茶屋が完成したのは万治2年(1659)、上茶屋は寛文元年(1661)のことで、その出来栄えに驚く承章の感嘆がある。
後水尾上皇は明暦4年(1658)、寛文3年(1663)3月・11月と下桂の御茶屋に行幸している。いうまでもなく後水尾天皇と八条宮家は縁深く、寛文2年に智忠親王が没した後は、上皇の皇子穏仁親王が宮家を継いだ。
棚田と大刈込。広大な浴龍池の堤だ。
浴龍池の御舟着
西浜遠望。西浜に立てば御所や京の町、はては桂、開田、天王山も見渡せる。
仙洞御所
現在の地に後水尾上皇の御所が建てられたのは寛永5年(1628)。庭園は寛永13年(1636)の完成で、寛文4年(1664)に大改造が行われた。舟を池に出し、舟遊びをしつつ、庭のあちこちの建物で茶を喫し、文芸に親しみ、芸能を披露しあう宴の空間であった。
「隔冥記」明暦2年(1656)7月16日条には、鳳林承章が院に招かれて、門主らと夕膳・濃茶相伴後、「高屋」に登り「四方山上之万灯籠(五山の送火)」を見物したことが記されている。現在跡のみが残る「悠然台」のような建物があったのだろうか。眺望は当時の宴にとってはなくてはならない趣向だったのである。
おおらかにして優美!
御舟着
悠然台跡の土台と石段