◆三思一言◆◆◆2020.03.08
岩倉具視の京都皇宮保存と宇田淵
◆京都皇宮保存に関シ意見ヲ上ツルコト
岩倉具視具視亡き後、内閣書記官室記録課長であった多田好問が編纂主任となって刊行されたのが『岩倉公実記』(皇后職版、1906年刊)。岩倉具視の伝記であるとともに、明治維新研究の必見資料です。そのなかの一項目「具視京都皇宮保存ニ関シ意見ヲ上ツル事」(明治16年1月)は、明治天皇東幸で衰退する京都を憂い、強力なリーダーシップをもって様々な政策を打ち出した具視の思いを網羅する史料です。
国立国会デジタルコレクションから、全文をPDFファイルで紹介しましょう。冒頭は「平安京ハ桓武天皇ノ経営スル所ニシテ既ニ年ヲ閲スルコト一千有余、其土地ハ山川明媚ニシテ大刹名刹ヲ粧點シ、其民俗ハ礼儀ヲ知リ倹素ヲ尚ヒ、前皇ノ政澤猶自ヲ今日ニ遺存シ実ニ上国ノ名ニ協フ、然ニ大政維新ノ後車駕東幸百官群臣扈従シ此地ニ留ルモノ僅ニ十中ノ一二過キス」と京都衰退のありさまから始まり、「然ハ神武帝奠都以後帝京ノ遺摸ヲ観ルヘキハ獨リ此平安京アル而已、之カ維持保存ノ道ヲ講スルハ今日ノ急務ニシテ且前皇ニ対シ孝敬ヲ盡サセラルゝノ大ナルモノトス、夫レ平安京ノ土地ノ美及風俗ノ善ナルハ海外各国ノ人モ亦称揚歆羨シ、終ニ吾天皇陛下ノ毎年避暑ノ為メ此地ニ臨幸アランコトヲ望ムト言フニ至ル、因テ顧フニ宮闕ヲ保存シ民業ノ衰微ヲ挽回スルニハ諸礼式ヲ興シ、他国ノ士民ヲシテ屡此地ニ出入セシムルノ方法ヲ設クルニ如クハ莫シ」と、平安京の保存を力説して結んでいます。
そして、具体策として①三大礼執行ノ事、②桓武帝神霊祭祀ノ事、③伊勢神宮并神武帝遥拝所ノ事、④賀茂祭旧儀再興ノ事、⑤石清水祭旧儀再興ノ事、⑥白馬節会再興ノ事、⑦大祓ノ事、⑧三大節拝賀ノ事、⑨宮闕ノ近傍ニ洋風ノ一館ヲ築造スル事、⑩宝庫築造ノ事、⑪宮殿并御苑ニ関する事、⑫二条城ヲ宮内省ノ所管ト為ス事、⑬留守司ヲ置ク事、⑭社寺分局ヲ置ク事、の14項目が列挙されています。
この意見書をまとめた直後の5月25日、具視は京都の桂宮邸に入り、自ら先頭にたって実行の指示を行います。宮内庁支庁を設け、さらに事務を推進しようと24項目が掲げられました。「桂宮日記」明治16年5月25日条~28日条を読むと、まさにこの時のドキュメントが詳しくわかります。それを【史料】宇田淵の事績(官吏編)にPDFファイルで紹介しました。宮内省京都支庁の発足に先立ち、桂宮邸に「宮内省京都出張所」が編成され、東京から随行した岩倉具視側近と西京(京都)の官員らが任務遂行に向けて動き出したのです。
◆具視の死と宮内省京都支庁の開設
明治16年(1883)5月28日、宮内省京都出張所の御用始めに出省したのは宮内少輔香川敬三・外務卿参議井上馨・大蔵卿参議松方正義・式部権助岩倉具綱・社寺局長大書記官桜井能監・内閣第ニ局書記官多田好問・宮内権少書記官麻見義伸・元老院御用掛勘解由小路資生・宮内省御用掛五辻安仲・宮内省ニ等属名島博包・京都府知事北垣国道・京都府書記官尾越蕃輔・宇田淵・伊勢華・宮内省庶務課青木行方・華族局九等属松尾相顕などの面々です。彼らは第一課~第五課に編成され、割り充てられた宮家の部屋で議論を交わしました。
6月10日、岩倉具視は井上馨・香川敬三・北垣国道・桜井能監・五辻安伸・岩倉具綱・勘解由小路資生・麻見義修・多田好問・尾越蕃輔・谷口起孝らを伴い、嵐山~保津川で船遊びに興じます。そこで発案されたのが「嵐山櫻楓会」で、有志者による保勝活動に先鞭をつけました。岩倉具視は明治14年ごろから明治維新によって疲弊した名刹・古刹の保護活動に取り組み始めており、久邇宮・北垣国道、具視側近の官吏、知恩院・妙法院・清水寺などの僧侶らが、草創期の京都保勝会に参画していました。
ところが嵐山の船遊びの2日後、岩倉具視は兼ねてからの病状が悪化し、急ぎ東京に戻ります。そして7月20日、ついに57歳の激動の生涯を終えたのです。
明治16年10月15日、岩倉具視の急死という思わぬ局面のなかで、遺志となった宮内庁京都支所が開設されました。しかし政府中枢への発言力と強力な影響力があった具視を失い、京都支庁はすぐに廃止され、明治19年2月20日に宮内省主殿尞京都出張所として組織改正されたのでした。
◆宇田淵の官歴と事績
明治16年5月の京都出張所(桂宮邸)→同年10月の京都支庁(閑院宮邸跡に建築)→明治19年2月の主殿尞出張所(同所)と、実行機関の紆余曲折はありましたが、岩倉具視が提唱した京都皇宮保存は、その後も営々と続けられました。今日みられるような京都御苑・御所、二条城、桂離宮・修学院離宮、名刹・古刹、景勝地や伝統的な祭儀の姿は、このときの「網羅的なビジョンあってこその京都の現在」だといってよいのです。
この保存計画実行には、岩倉具視の遺志を継いだ多くの官吏が携わりました。宇田淵(1827‐1901)もその中の一人で、岩倉具視が幽棲していたころからそのもとに出入りし、戊辰戦争のさいには岩倉親衛隊の一員として東山道に遠征しました。明治天皇東幸後は具視の命により京都留守官を拝命、ついで桂宮家令・御附として京都皇宮保存の事務を支え、後には宮内省主殿尞出張所長となります。宮内省や京都府の公文書には、宇田淵が長きにわたって関わった生々しい仕事の内容が残されています。
明治28年の平安京遷都千百年祭は、京都皇宮保存の総決算ともいえますが、宇田淵は京都御所で桓武天皇の御璽守護の任務を終え、この後静かに引退しました。ページを改めて(【年表】宇田淵の事績)、その事績と人物像をくわしく紹介しますので、岩倉具視の京都皇宮保存に関心のある方は、ぜひご覧ください。
-参考文献ー
・小林丈広『明治維新と京都 公家社会の解体』 臨川書店 1998年
・『北垣国道日記「塵海」』 思文閣出版 2010年
・『旧桂宮家伝来の美術』 宮内庁三の丸尚蔵館 1996年
・図書尞叢刊『古今伝受資料』ニ 宮内庁書陵部 2019年
明治16年11月5日「桂宮御蔵品禁中へ御預ヶ点数書」提出上書は桂宮御附宇田淵自筆 宮内庁宮内公文書館蔵(25405)「皇族録」
宮内省京都支庁関連文書 京都府立京都学・歴彩館蔵 京都府庁文書(明16-36)「明治16年修学院村同院上下引渡目録」
宮内省主殿尞京都出張所関連文書 宮内庁宮内公文書館蔵(22043)「重要雑録」
京都御所
仙洞御所
二条城本丸御殿
平安神宮
桂離宮
修学院離宮
上賀茂神社(葵祭)
石清水八幡宮
知恩院
嵐山