◆三思一言◆◆◆2018.03.09
◆「七月十六日山火」
地理的な内容を主題とする「洛外図屏風」で、唯一の風俗的な要素として特筆されるのが「七月十六日山火」の貼札と、左大文字、妙法、船形、鳥居を、赤い点々(火床)の連なりで描いた「五山の送り火」です。「洛中洛外図屏風」が祇園祭りならば、「洛外図屏風」は五山の送り火。各本ともに必ず描かれており、この屏風の主題を象徴するシンボルモチーフといってよいでしょう。
五山の送り火行事は、15世紀中ごろよりさかんになった「万灯籠」の習俗が転化したもので、17世紀中ごろには、現在のようなかたちに定着したと考えられています。鹿苑寺(金閣寺)鳳林承章の日記『隔蓂記』から、その様子の一端をご紹介しましょう。
▶慶安元年(1648)7月17日条、当山の万灯籠を今夕行う。昨晩が大雨だったからである。明王に於いて六斎念仏が済み、不動に赴く。▶慶安3年7月16日条、今晩山上に登り万灯爈(籠)を見る。例年の如く不動に到り、冷麺を食べる。(中略)毎年の如く山上大文字火を調える。石不動に於いて梵魯念仏がある。▶承応3年(1654)7月16日条、今晩、山上に於いて諸方の送火を見る。▶明暦2年(1656)7月16日条、仙洞より御使いがある。今夕、万灯籠の御見物があるので、早々に御所に来るようにとのことだ。夕御膳も御相伴するよう心得て、参勤すべき旨承った。急ぎ剃髪して、急々に院参したところ、妙法院御門主堯然・聖護院御門主道晃法親王らがおられた。勧修寺大納言経広卿・岩倉中納言具起卿も召されている。(中略)夕御膳御相伴済んで、御庭を歩み行き、各御供仕り、濃茶をいただく。各高屋に登り、四方山上の万灯籠を見物した。
このように盆の旧暦7月16日、山上において万灯籠(送り火)があり、鹿苑寺では六斎念仏が催されて、冷麺や濃茶が振る舞われていたことがわかります。鳳林承章は後水尾上皇から仙洞御所に招かれ、法親王らと夕御膳を相伴し、その後で御所の庭を回遊し、「高屋」から「四方」の送り火見物に興じることもありました。「高屋」とは、現在も仙洞御所に築山・石垣・石段が残る悠然台のことです。
ところが「洛外図屏風」には、鹿苑寺山上の右大文字だけが描かれていません。このころには諸方の山々あちこちでも、小規模な万灯籠がたくさん催されていました。鹿苑寺の右大文字も、当時はそのようなものの一つだったのではないでしょうか。当時大規模に行われ、代表的なものだけを「洛外図屏風」に描いたので、右大文字がないのかもしれませんね。五山の送り火行事の歴史についてはよくわかりませんが、「洛外図屏風」が、その歴史を考える貴重な資料であることは確かです。
◆名所・旧跡への憧憬
「洛外図屏風」には、ありとあらゆるお馴染みの地名(貼札)が網羅されています。貼札は右隻330余り、左隻300余り、合計630余りに及びます。内容を列挙すると、川・池・淵、山・嶽・峰・坂・峠・瀧・谷・越、渡・橋・河原、森・木・薗、街道・追分・口・辻、町・村、寺社・札所・堂・法花檀所・御旅所、御茶屋・屋敷・殿・門跡、御廟・御陵、地蔵・明神・観音・薬師・八幡・不動・稲荷・伊勢宮、石塔・塚・芝居など、その詳しさには驚嘆です。「伏見城跡」、「淀古城跡」と、もはや過去となった史跡もあります。写実的な絵とセットで見れますので、だれでもが、たちまち江戸時代の京都へタイムスリップ。
17世紀後半、平和で安定した社会のなかで、さまざまな年中行事や旅、文学や芸術などがさかんとなり、高名な名所・旧跡が人々に広く求められるようになりました。「洛外図屏風」は、そのような世相と近世的な京都認識がそっくり表現されている、とても魅力的な絵地図なのです。
-参考文献-
・村上忠喜「託される民俗―京都五山送り火行事にみる都市・近郊の関係―」『洛中周辺地域に関する総合研究』、仏教大学総合研究所、2013年。
如意ヶ岳 左大文字(京都御苑から)
仙洞御所 州浜
仙洞御所 悠然台跡
右大文字と船形 (京都タワーから)
手前に見えるのは北野天満宮・二条城・船岡山の森
*クリック(拡大)して御覧ください。
妙法 (京都タワーから)
左手前に見えるのは京都御苑の森